カテゴリー「観劇 Le théâtre」の4件の記事

2008年12月21日 (日)

.コルネイユ「舞台は夢 L'illusion Comque」 at 新国立劇場

Panph_illusion_comique 先日、久しぶりに楽しい劇を見てきましたので、報告します。舞台は新国立劇場でのコルネイユ「舞台は夢(L'illusion Comique)」。物語は・・・パンフレットから。

行方の分からぬ息子の安否を気に病む父親プリダマンは友人ドラントとともに、洞窟に住む魔術師アルカンドのもとをを訪れる。プリンダマンは、「ご子息の輝かしい運命をお見せしよう」と言う魔術師にいざなわれ、息子の人生の有為転変に、まるで「観客」のように立ち会うこととなった。

次々と息子の身の上に起こる波乱万丈の果てに最後に行き着いたのは、いとしい息子の非業の死という悲劇的結末。絶望し、自らの命を絶つと口走る父親に、魔術師アルカンドが明かしてみせる秘密・・・。

幾重にも重なった複雑な「劇」のその先に、思いもかけない世界が立ち現われる。』

中劇場の中央に円形舞台を置き、その中に開いた穴から人が出たり入ったり・・、内容の面白さだけでなく、舞台にも変化を持たせた楽しい舞台でした。

実力派段田氏演じるほら吹き隊長のとんでもなく規模の大きい話に、始めは呆れていた私もだんだんその気になってしまい、”もっと、もっと、もっと大きな事を聞かせて!”と思わず拍手しながら、心の中で応援しておりました。

Corneille 段田安則氏の他、高田聖子さん、堤真一氏、秋山菜津子さん達の演技が上手いのか、芸術監督鵜山仁氏の演出が効果的なのか、もともとのコルネイユ(左図)の戯曲がすばらしいのか、いえいえやはりその全てが絡み合っているからすばらしい舞台になっているのでしょう。

登場人物の意外さにしても、会話内容にしても話の展開にしても、ほんとに古典的だと思うけれど、演出の違いによってこんなに時代を感じさせない舞台になるんですね。

何年か前に見た、イギリスのロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの「ヴェニスの商人」(これは見事でした!)の感激以来、久しぶりに我を忘れて舞台を楽しむことができました。

Le_cid 恥ずかしいことに、ピエール・コルネイユ(1606-84)は、悲劇作家だと思っていました。なぜなら代表作の悲劇「ル・シッド(Le Cid)」しか知らなかったのです。彼はデビュー作から喜劇だったなんて始めて知りました。しかもこちらのフランスのウィキペディアを見ると、この「L'illusion Comique」と「Le Cid」は、1636年彼が30歳の時、同じ年に書いているんですね。

さらに驚いたことに、(いえ、知らなかっただけですが)、彼は、モリエール(1622-73)より先に生まれていて、後で亡くなっていました。計算してみると、モリエールがまだ子供の頃、コルネイユは既にパリで、”舞台はすばらしいんだ!”とメッセージを作品中で主張していたのですね。コルネイユが「フランス演劇の父」と呼ばれているのも納得です。

翻訳者伊藤洋氏の話によると、原作L'illusion comiqueは、喜劇なのにアレクサンドランで書かれているのだそうで、それを今回の舞台用に全面的に改訳をされたのだそうです。

専門家とはいえ、大変だったでしょう。まったく古典的な12音節の韻を踏んでいる詩のような会話を、今回の演出に合わせて日本語の口語にしなければならなかったのですから・・・

Comedie_fran1 実は2年前の春友人とパリへ行ったとき、本場コメディフランセーズComedie francaiseで、丁度公開中だった「Le Cid」を見てきました。前日に予約したせいか、なんと最前列で(ほんとうは、もう少し後ろがよかったのですが)、演技者の小さな表情の変化まで見て取れる距離、しかもみんなの会話で飛びかう唾まで見える席でした。(左は、Comedie-francaise内部 絵葉書より)

ル・シッドも実に古典的で、登場人物がどうしようもない苦しみを独白する場面が多く、しかもすべてがアレクサンドランで書かれているので、その言葉の途切れる韻の連続は、耳には歌のように聞こえました。美しかったですが、難しかったです。

舞台としては、全くの古典的演出でしたので、演技者の動きはあまり無く、その楽しみは、会話に集約されるのかもしれません。そういう点では、やはり喜劇の方がずーっと見て楽しいですね。

今、コメディフランセーズのサイト(以前のサイトとかなり変わっていました。)を見ましたら、この12月6日から来年6月まで、この「L'illusion Comique」の舞台が見られるようです。写真を見ると、かなり現代的演出のようですね。見たいのは山々、でも来年は、はやりイタリアへ行こうと思っているので、しばらくはコメディフランセーズは”お預け”です。(下は、Comedie-francaise外観 絵葉書より)

    Comedie_fran2

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2006年9月22日 (金)

文化の秋 L'autome pour la culture

20050908

月曜日から5日間で、観たもの、聞いたもの。

先ず、友人の誘いで、フランス語によるレンブラントの絵の説明と聖書「サマリアの女」の場面の解釈を、ある教会に聞きに行きました。私はクリスチャンではないのですが、説明はとても興味深かったです。

琳派の絵は、頭を空っぽにしてただボーッと美しさだけを感じればいいのですが、さすが、聖書に関する絵に関しては、そうは行かないのだと、フランス人の先生の説明を聞いて実感。

初め何の説明もなくレンブラントの絵を見たときは、場面の状況も分からず、会話をしているらしいイエスと女が眼に入るだけで、絵からは沈黙しか感じられなかったのに、説明後にもう一度見たときは、2人の会話が聞こえたように思えました。おまけにその変化するトーンまで。不思議・・・

二つ目、宗達、光琳、抱一の「風神雷神図屏風」を観に出光美術館へ。

三つ目、能「遊行柳」 国立能楽堂。毎年いくつかの能は見ています。今日のは、渋かったけど良かった・・・。能面が見るからにしなびていて、あの能舞台全体が”人絶えて荒れは果つる”ように見え、秋のもの寂しさと老木の精の気持ちが一致し、その中でゆっくり舞うシテが美しく見えました。こんなに動きもなく、シテの衣装も鮮やかでない能ですと寝てしまう事も多いのですが、今回は、どっぷり閑寂の世界に入り込めたかな。舞囃子での「繪馬」、リズムの変化が面白く、舞台で3人が踊るのは壮観でした。ぜひとも能でみてみたい。

四つ目、サミュエル・ベケット作「エンドゲーム」 世田谷パブリlクシアター・シアタートラム。ベケットはよくわからない。代表作「ゴトーを待ちながら」はフランス語で読んだけど、なんだか分からないまま終わってしまった・・・えっ?ゴトーは?という感じ。でも、これは当時はあまりにも革新的内容だったでしょうね。絵で言うと、具象から突然抽象になった感じ。

今回のは、日本語での劇なのに、やはり分からない。ドラム缶の中の人たちは、いったい何を表しているのだろう?眼も見えず、足も動かないハム、人の手を借りなければ生活できない彼は、象徴的に私達のことを指しているのだろうか?灰色の外界、変化のない死んだような毎日、”昨日”という言う言葉に異常に反応する出演者、彼らにとって、いえベケットにとって、そして私達にとって”昨日”とは、どういう意味なのだろう?疑問が山のように出てくる。

来週になると、専門家の方々のトークがあるらしいのですが、残念ながらチケットを取ったときはそんなことは全然知らず。ベケットの面白さを聞きたかったなあ~。帰りの出口あたりで、「ベケットが好きで好きで・・・」と話している声を耳に挟んだ。へー、そういう人もいるんだ。確かに分かれば分かるほど面白いでしょうね。でも今の私にとっては、もう少し単純なイオネスコの劇の方が面白くて、いいけれど。

今週からはイタリア語の授業も、友人達とのモリエールを読む勉強会も始まってしまったし、来週からはさらにフランス語の授業(le mondeを読む)も始まる。また忙しい1週間の繰り返しが12月上旬まで続くことになるのです、ハァ~・・・

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2006年9月 6日 (水)

「出口なし」サルトル Huis clos de Sartre

Sartre_1 アルファベットとは、暫らくお別れ、と言ったばかりなのに、昨日は、フランス語の劇、サルトルの「出口なし」(Huis clos)を見てきた。しかも、青山にある銕仙会の能舞台で。

「Huis clos」は私にとって忘れられない衝撃的な内容だった。パリの学校へ通っていたとき授業内容以外で出された課題の1つで、3週間ほどで読み、内容の要約を提出し、かつその後クラスで討論をする、というものだった。

登場人物はたったの4人、部屋は第二帝政式サロン風、客室ボーイが一人の男を部屋に案内するところから始まる。

-男: Où sont les pals? (焼き串はどこ?) -ボーイ: Quoi? (は?) -男: Les pals, les grils, les entonnoirs de cuir. (焼き串、焼き網、皮のじょうごは?) -ボーイ: Vous voulez rire? (ご冗談でしょう?)

この変な会話、理解できますか?焼き串って何?

Huis_clos その後、このボーイは、女性を1人、また1人と同じ部屋に案内してくる。それぞれ入ってきた時の言葉も何が言いたいのかわからない。やがて、3人は話し始める。

-女1: Vous êtes.. (貴方は・・・?) -女2: Qui, la semaine derniere. Et vous? (先週。貴方は?) -女1: Moi? Hier. (私?昨日) -女2: Vous avez besucoup souffert? (かなり苦しんだの?) -女1: Non. J'etais plutôt abrutie. (いいえ、むしろボーッとしてたわ。) -女2: Qu'est-ce que...? (何だったの?) -女1: Une pneumonie.~Et vous? (肺炎。貴方は?) -女2:Le gaz. (ガスよ。) -女1:Et vous, monsieur? (貴方は?) -男:Douze balls dans la peau. (体に弾丸12発)

何?何について話してるの?ほんとにこれで課題ができるのかとあせった。パリで唯一の日本語の本屋ジュンクに飛んでいったものの、訳本はなかった。当時持っていたパソコンは遅いものだったし、フランスは当時まだダイヤルアップで、ネットで情報を探すという習慣も私にはなかった。

実は、この場面は死後の世界。生前はすれ違ったことも無い環境の異なる3人(ジャーナリストの男、元郵便局員の女、金持ち老人の妻)が、地獄に来てしまったのだ。

窓もなく、ドアは開かない。部屋の明かりは消えることなく、人々は瞬きさえできない状態。つまり、回りを見たくなくて目を閉じようとしても閉じることができないのだ。お互いを見続けながら、と同時に見られ続けながら、永遠にこの部屋に居ることになる。

3人は、お互いを知れば理解し合え、穏やかに過ごせると思い、話し始めるのだが、それはさすがお互いが判断し合う人間ゆえ、一筋縄ではいかない。自分が信じている自分像と他人が判断している人間像とは異なる。人は、他人の行動を見ることによって、その人を判断する。

前置きが長すぎました。ここで有名なサルトルの言葉がでて来るのです。

Tous ces regards qui me mangent...~ Alors, c'est ca l'enfer. Je n'aurais jamais cru... ~ : le soufre, le bucher, le gril... Ah! quelle plaisanterie. Pas besoin de gril : l'enfer, c'est les Autres.

僕を食べつくすみんなの視線。~ それじゃ、これが地獄なのか。このようだとは思ってもみなかった。~ 硫黄(の匂い)、火あぶり、焼き網・・・あァ!なんというお笑い草か!焼き網は必要ないのだ。地獄、それは他人だ

話を変えて、この舞台について、”能と組み合わせた”のは、ひとつの面白い演出だったと思う。能は、舞台装置が何も無いので、観客が想像しながら演技を見る。また、動きが少なくても、シテの気持ちは見ている人に伝わる。

今回のHuis clos も舞台上に何もなくても十分だった。本来は、ブロンズ像に話しかける場面もあるし、少々乱暴な場面もあるのだが、それらはすべて省かれていた。だから、多くの見ていたフランス人には少々迫力不足と感じたかもしれない。しかし、能の視線から見ると、最小限度の動きと、感情が高まった場面で行う床を足でドーンと打つ動作とで、よくここまで表現できたと感心する。

ただ、3人のうち、イネス役の女性は、さすがコメディ・フランセーズ正座員だけあって、イネスらしい動きと迫力有る声で圧倒していた。しかし、ジャーナリストのガルサン役の男性は、少々早口すぎるし声の張もあまりない(要するに舞台俳優の声ではない)うえ、ガルサンの気持ちを摑んでいないように思え、存在感がなかった。映画「愛する者よ、列車に乗れ!」に出演していたらしいが、一体どの役をしていたのだろう?全然わからない。エステル役の女性は声の質は良いいのだが、うーん、ガルサンを誘うときの声や表情に甘さがなかったかな。

Nicola なんといっても、この舞台で、みんなが目をひきつけられたのは、ボーイ役だっただろう。解説によると、ボーイは能でいうとワキだ、と書かれていたが、やはりパリ・オペラ座のエトワールダンサーだけあり、黒子なのに一番美しく存在感があった。

彼の歩き方はまさしく能役者。動きも能役者。シテは、舞台上では、よくジーっとして動かないときがある。しかし、その体は神経がすべてに行き届いており、緊張感がありとても美しいのだ。それは、このボーイ役を演じたニコラそのものだった。

パリに居たとき、ガルニエで彼のバレーを何回か見た事がある。顔はほっそりしているのに、体は非常に大きく筋肉質でがっしりしており、エロワールの中でも人気者だった。どうして彼がここに?

パンフレットの解説を読むと、彼は、その後振り付けも行ったり、映画に出演したりしているようだ。振り付けを行う際、能の動きの取り入れるのもおもしろいだろう。

まあ、とにかく、日本に居て、フランス語の劇を見られるこのうれしさは言い尽くせない。しかもニコラを見られたし。今回は、力が入って長くなってしまった。

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2006年7月 8日 (土)

「橋の上の男」 L’homme sur le parapet du pont

舞台には橋の欄干を前に、一人の男がじーっと水面を見つめている。人生に疲れたような、望みもないような表情で・・・そのうち上着を脱ぎ、内ポケットから手紙を出し、もう一度読み直し、そしてそれをちりじりに破り、川に投げ捨て、やがて欄干の上に登る・・・(詳しい内容は書けないが)、その後、自らジャーナリストと名乗る男が出てきて、二人が会話、いえ、討論を始める・・・

ギィ・フォワシィ氏の劇で、両国の「シアターX(カイ)」において行われていた劇だ。“橋の上から自殺をしようとしている男と、その決定的写真を撮ろうとする男のブラック・ユーモア”と解説されているフランス現代劇。全くフランス人らしい (批判精神)と (ユーモア、風刺性)に満ちた演劇だった。

1 つ目の劇が終わると、ロビーでワインとコーヒーのサービスがあった。最近、こういうのはよくある。次は、二人の日本人俳優による詩の朗読。最後の劇はまた、上記と同じ様な光景が始まる。しかし今回は、欄干が舞台の後方にあり、自殺志願の男は客席に背を向けて、同じような行動をし始めるのだ。しかも、出演者は2人ともフランス人で、初めのと同じ劇を、今度はフランス語で演じる。

なんという会話のテンポの良さ、なんという面白いフランス人の手や体の動き!さすがにベテランの動きは違う。ジャーナリズムを批判しつつ、苦しみを伴った人生を表現するというその劇の進行過程や会話内容が、フランス人にピッタリ!演出が違うと、こんなにも劇は変わってしまうのかとみんなびっくり。

演じる俳優の年齢も関係しているかも。日本の演技者は若者だったが、こちらは熟年、苦いも甘いも知っている年齢。だからだろうか、日本人の方は、なんとなく言葉がだた上滑りの状態だった。一生懸命言葉をしゃべり演じているように見えるが、内容が分かっていない感じ。フランスの文学独特の過剰とも思える比喩の連続は日本人には合わない。

日本には彼の芝居だけを行う「ギィ・フォワシィ・シアター」という東京の劇団があるそうで、その30周年記念公演の為に、彼の演目の1つである「橋の上の男」がフランス人によって演じられる機会が組まれたのだそうだ。友人3人と一緒にそれを観る。(先週のことですが)

私達フランス語を勉強している者にとっては、生のフランス語を聞けるという利点だけでなく、日本人には見られない彼らの自然な表情や仕草を楽しみ、そして、何よりこのフランス人のユーモア溢れた会話や感覚を直に感じられる非常に良い機会だった。私達は口を押さえ、笑いをかみ殺すように楽しんだ。満足満足。この日は十分に“フランス”を楽しんだ。

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