カテゴリー「フランス語 le francais」の11件の記事

2009年10月 4日 (日)

La petite fille de Monsieur Linh リンさんの小さな子

La_petite_fille 以前読み始めた頃に少し書きましたが、もう次の日には読み終えていたほど、夢中で読んでしまった本。

戦争で息子夫婦を失い、ただ一人残った息子夫婦の小さな娘を抱え、バッグには母国の土を忍び込ませて亡命してきたリンおじいさん。

同じ国からきた人々とは交流できず、年配で、また言葉も解らない彼には非常につらい世界。思い出すのは、光り輝く太陽の下、緑の美しい故郷の話ばかり。その情景が、今いる彼の街(フランスと思われるが、街名も国名もでてこない。)の、寒く灰色の空と比べて、夢の中のように美しい。

外出を勧められたリンさんは、小さな子を寒さから守るためにありったけの服を着せ、寒く暗い未知の街に繰り出す。孤独なりんさんが知り合ったのは、公園でタバコを吸っていた年配の男性バルク。言葉は発するもののお互いわからないので、ジェスチャーを交え、また心で会話し始める。

バルク氏から女の子の名前を聞かれて、リンさんは、「Sang diu」と答える。母国語では、「穏やかな朝」という意味らしいのだが、バルク氏はそれを「Sans Dieu」(” without God”の意)と発音するところが、なんだか読み手としては悲しい。

二人の老人は、言葉の限界など関係なく、どんどん心を通わせていく。バルクさんがにリンさんをカフェに誘ってくれた御礼に彼にタバコをあげたいと、難民の世話人にタバコを頼み、また、それを彼に差し出す前のリンさんの気持ちなどが切々と伝わってきて、ほんとうに胸が熱くなる。

このようにささやかではあるけれど、抱きしめたくなるような暖かい交流を重ねる二人。しかし、運命はそれを続かせてはくれない。最後のリンさんの焦る気持ちは、みんなの胸を締め付けるだろう。そして衝撃の最後。

Bruit_trousseaux でも、映画「髪結いの亭主」のような最悪のパターンではなくて、ほんとよかったー。きらっと光る本です。日本語訳もみすず書房から「リンさんの小さな子」として出ているようですので、図書館でも見つかるでしょう。お勧めです。

よく考えるとそういえば、フィリップ・クローデルの本は、過去のに2冊接していました。一冊は「灰色の魂」、随分前に図書館で借りた日本語の本で読み始めたのですが、題名と同じように、あまりにも暗い暗い話で、途中で期日がきて返却してしまいました。雨交じりの灰色の空の下、少女の死体発見から始まる物語。記憶は薄れているので、いつかまたチャレンジしたいと思います。

もう一冊は「Le Bruit des trousseaux」。”鍵の束の雑音”と訳していいのでしょうか。日本語訳はまだなさそうです。クローデルは若い頃、11年間もの間週に3回刑務所に通い、囚人達に文学を教えていたそうで、服役していたいろんな人とのかかわりを断片的に書いたもの。先生として犯罪者達と係わっていたものの、やはり心の奥には隠せない緊張感が漂っていていたのを覚えています。

フィリップ・クローデルの作品はどちらかというと暗いのですが、彼のフランス語は変な癖も無く気負いもない自然な文章なので読みやすく、気に入っています。

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2009年10月 3日 (土)

Poisson d'or par Le Clezio 黄金の魚 クレジオ作

Poisson_dor 簡単な文章であるにも係わらず、読み終えるのに随分時間がかかってしまいました。

理由は、どうしても面白さが見出せなかったので、事務的に電車の中だけで読むことに決め、ただ最後がどうなるのか知りたいという思いだけで読み進めていった為。

幼い頃、誘拐されたアフリカの女の子が、奉公先の家を逃げ出し、様々な経験をしていく物語。

誘拐された時に暴行を受け、片耳が聞こえなくなっているライラ。奉公に出され、最初の主人だったおばあさんだけにはかわいがられ教育を受けたものの、後の主人は非常に冷たく、家を逃げ出す。落ち着く家族も友人もいない彼女は、それ以降、厳しい放浪の人生を歩まなければならなかった・・・・。

場面は、アフリカからフランスのパリへ(パリの多くの道路名や駅名が出てくる)、次にアメリカ(ボストン→シカゴ→サンタモニカ(だったか?))、再び南フランス、そしてアフリカへ。

親切にしてくれる人に出会ったかと思うと、簡単に何らかの事情で去ってしまい、次に誰かに出会い、また分かれるというパターンの連続に、いささか疲れました。2ページほど読み進めると、もう別の場面になっている。どうしてもう少し落ち着かないのかしら、と疑問ばかり・・・。

ノーベル文学賞を取った作家の文章だからと期待していたのだけれど、簡単な文が並んでいるだけで、フランス語特有の美しい形が見られない。なんだか、内容的にも文章的にも物足りなくて残念(ただ、最後の場面を除いて)でした。この本は、彼を代表するような作品ではなかったようです。

クレジオの初期の作品は難解な文章なのだそうですが、ある時期から突然そのスタイルを変化させ、このような簡単な文章になったのだそうです。はやり、長編の「Desert」を読まなければ、クレジオのすばらしさは解らないのでしょうか?でも、あれは長すぎます、私には。

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2009年3月26日 (木)

《Ou on va, papa?》を読んで

Ou_on_va_2 「すぐ読める本だから、読んでみて」と、ポンと友人から渡された右の、Jean-Louis Fournier著『Ou on va, Papa? 』((僕達)、どこ行くの?パパ)という本。昨年(2008年)、”PRIX FEMINA”という賞を獲得したという。

PRIX FEMINAという賞は知らなかったので、調べてみると、雑誌FEMINAが雑誌LA VIE HEUREUX協力の下、1904年、ゴンクール賞に対抗して創立された賞なのだそうだ。審査員は賞の名前の通り、全員女性だとか。

この本、昨年8月20日に発刊された直後から、出版のStock社にはメールや手紙が押し寄せ、瞬く間にフランス中を感動の渦に巻き込んだのだそうだ。

女性達がこの本を選んだ理由は良く分かる。これは、生まれた子供が二人とも重度の障害者だった父親の、長年の心情が書かれている本なのだ。

連続する日々の生活は、想像を絶する状況だったのだろう。しかし、作家でありまたテレビのディレクターでもある彼は、母親が子供を見る姿勢とは少し異なり、一歩引いた見方で、厳しい現実や絶望、そして子供へのかなわぬ夢までもさらりと書き流している。

この本を実際に障害者の子供を持つ親が読んだら、どう思うだろう?反感を感じる箇所も沢山あるように思われる。難しい・・・

しかし、これがもう白髪になってしまった彼の、長年悩み苦しんだ後の素直な赤裸々な声なのだと思った。

・・・・

もし、彼らが文字を読めるようになったら、先ずタンタン(有名なかわいい漫画)を買おう!そして”Signe de Piste”シリーズ(少年冒険小説らしい)、そしてアレキサンドル・デュマ、ジュール・ベルヌ、それからプルースト・・・

しかし、彼らは決して読むことはできないだろう。たとえページの上の文字がはっきりしてきても、彼らの頭の中では、それらはぼやっとしているだけなのだろう・・・

・・・ 彼は、それらを絵と思っているのかもしれない・・・それとも、蟻の子供と思っているのかもしれない。彼はそれらをつぶそうとして手を伸ばしても、それが逃げないので不思議に思っているようだ・・・

・・・・・

私は、『ハンディキャップ handicape(フランス語的スペル)』という言葉が好きではない。だって、それは英語の言葉だし、『帽子の上の手』という意味じゃないか。

『異常 anormal』という言葉も好きではない。それは特に子供に使われる。

『normal 普通、標準』というのは、どういうことなのだろう?あるべきなように、存在しなければならない、つまり、平均、普通、凡庸であるということか。私は、『普通』が好きではない。それより上か、下でも良い。とにかく、他のみんなとは違うのが良い。

私は、『他の人のようではない』という表現を使いたい。だって、私はいつも他人が嫌いだから。・・・

・・・ 私が子供達の事について話すとき、彼らの事を『他の人のようではない』子だと話す。なんとなくはっきりしない表現だが。

アインシュタインもモーツアルトもミケランジェロも、他の人たちとは異なっていた。

・・・・・

なんと彼の奥さんは、3人目を妊娠し、迷った後生むことにした。そしてかわいい女の子の誕生!ブロンド髪のかわいい正常な赤ちゃんだった。そしてその後、なんと母親は子供達の元を去ってしまうのです!

しかし、彼は奥さんに対して泣き言一つ言わず、たださらっと”去った”とだけしか書いていない。他の辛いことも淡々と書き流している。

・・・・・

Mathieu(長男)は、背中がどんどん曲がっていった。金属のコルセットを巻いていたのだが、何の足しにもならなかった。そのシルエットは、土を掘り続けた人生を送った田舎の年老いた農夫のように見えた。彼を散歩に連れて行っても、彼は足元しか見えない。空を見るなんてとてもできないのだ。・・・

それでも曲がり続け、とうとう肺を圧迫し、呼吸も困難になってしまった。背骨をまっすぐにする手術を受けなければならなかった。

手術は行われ、彼はまた完全にまっすぐになった。(il est totalement redresse.)
3日後、彼はまっすぐのまま亡くなる。(il meurt droit.)
結局、彼に、空が見えるようになされたはず手術は、成功したのだ。

・・・・・

なんとも辛いでしょう・・・この表現。女性だったら使えないですよね。

文章が短く、簡単な単語ばかりなので非常に読みやすい上に、紙上に余白が多いので、ゆったりした気持ちで読み進めることができます。わかりにくい所は読み飛ばせばいいので、初中級も十分に味わえる本ではないでしょうか。ただし、現実ではない想像が多いので、条件法を習っているとそのニュアンスの違いが非常によくわかります。

ちなみに、この『Ou on va, Papa?』という題は、次男のThomasが声として発することのできる唯一の文章です。

(しばらく書きません、と言っておきながら、すぐ書いてしまうところがいやですね、全く・・・。でも、ちょっと良い本だと思ったもので、書いてみました。また、気分転換にもなりますし・・・)

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2008年11月28日 (金)

”La preuve”と”Le troisiem mensonge”を読み終えて

La_preuve_2 ”Le Grand Cahier”(悪童日記)は”La preuve”と”Le troisiem mensonge”を併せて3部作(trilogie)を成しているのだそうで、第一作が前述のようにあまりにも衝撃的で面白かったので、残りの2冊は友人に借りずに、購入することにしたのですが・・・

いざ購入してみると、なんと一日半で2冊とも読み終えてしまいました。やはり、文章がとても易しいし、一体どうなっているのだろうと、次へ次へと読んでいくと、いつの間にか終わってしまったのです。もうフランス語を読んでいるという感覚は無くて、日本語のページを次々にめくっているようでした。ちなみに、この2冊の日本語タイトルは、”ふたりの証拠”と”第三の嘘”だそうです。

はやり、Agota Kristofの世界は、”C'est egal”と同じなのですね。知らず知らずのうちに、現実の裏側の世界に入り込んだような、迷宮に入ったような、不思議な世界に連れて行ってくれます。

それにしてもこの3部作は、なんという見事な構成をしているのでしょうか!!

そして、構成だけでなく、文章の形態を変化させ、つまり、1作目はNous(私達が主語)の現在形で説明文が多く、2作目はLucasとかClausとかil(彼、3人称単数形)が主語で会話が多く、3作目はJe(私)が主語で会話と説明文が半々ぐらいなのですが、これがなんとも・・・複雑にさせるテクニックの一つかもしれません。

Troisieme_mensonge 1作目では、双子の子供の名前は出てこなくて、2作目”Le preuve”で初めて、町に残った方がLucasで、国境を越えたのがClausだと分かる(2人の名前は、文字を入れ替えてできる”アナグラム”になっていると、友人から教わりました。)のですが、う~~ん、おかしい・・・何かおかしい・・・ひょっとして、「24人のビリー・ミリガン」(ビリーは多重人格者)みたいなのかな?と思ったりして・・・いろいろトリックを考えながら読んでいくのは楽しいのですが・・・

一作目とは書き方が全然違うし、あの勢いがぜんぜん見当たらないし・・・同じ舞台である町の人たちが、Lucasが双子の一人だと知らないのはおかしいし・・・・とにかく読者はどうなってるんだろう?と疑問を感じながら、そして土台が揺らぐような不安な感情をも持ちながら読み進めていくハズ・・・このLucasは、一体誰なのか?そしてーー、ドギャーーン!!

3作目”Le troisiem mensonge”では、静かな語り口調で現在と過去の話が入れ替わりに次々出てきて、読者の疑問の方向も変わっていきます。う~ん・・・この双子は・・・・・?とにかくこの3作目は、いえ1作目も2作目も同じなのですが、絶対的な孤独、苦悩、絶望が取り巻いています。生きて行くことはほんとにつらい・・・。

特に2作目のMathiasの存在、LucasのMathiasに対するあまりもの愛情を不思議に思っていたのですが、今3作目を終えた時点では、その愛情が別の意味をもって重く悲しく、人間の愛の果てしなさを感じられずにはいられません。

ネットでAgota Kristofのインタビューを見つけました。その題は”L'amour de la vie jusque dans l'enfer”というもの。”人生の愛、地獄までも”とでも訳せばいいんでしょうか?まさしくこの3部作をまとめた言葉だと思いました。でも・・・ほんとに胸が苦しい・・・

”Un livre, si triste soit-il, ne peut etre aussi triste qu'une vie”
(一冊の本が、たとえそれがどんなに悲しくても、一つの人生ほど悲しくはありえない。)

既に読んだ友人達がこの本の話をするときは、なんだか奥歯に物が挟まったような、なんだか煮え切らないような話し方をしていた理由が、今よくわかります。内容を暴露しないように、努力してくれていたんですね。

本の表紙を見直すと、これらの写真は見事に内容を象徴していますね。でもこれって、映画にできるのでしょうか?

あまりにもこのシリーズに没頭したので、未だに私自身が、この双子の生きた世界に居るような気がしてなりません。つらい物語なのに、後味は全然悪くないのです。でも、その余韻がずーーと残っているような・・・いえ、しばらくその余韻の中に居たいような気分です。

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2008年11月25日 (火)

”Le Grand Cahier”を読んで

Grand_cahier_2

友人から”簡単な文章なので、さーっと読めるわよ”と言われ、借りていたフランス語の本”Le Grand Cahier”を読み終えた。確かに”さーっと読めた”のだけれど、ちょっとショックで、その後しばらくボーッとしていた。

その作者、Agota Kristof(アゴタ・クリストフ)は、ハンガリーからスイスへ亡命した女性で、フランス語を”第2の祖国”(la patrie d'election)の言語として覚えた為、とても分かりやすい文章を書く。

実際、私は彼女の”C'est egal”を既に読んでいて、文章はやさしいのは知っていたけれど、”さーっと”は読めなかった経験があった。これは実に奇妙な短編集で、文章は読めるけど、内容は、えっ?さっきはどうだったっけ?えっ?何?の繰り返しばかりで・・・異次元の世界に連れて行かれたような、とにかく不思議な感覚にさせられた。

だから、”さーっと”読めるなど信じられなかったのだが、いざ読み始めてみると、さすが彼女を有名にし、”ヨーロッパの本!”と讃えられただけはある!とにかく、非条理な大人の世界に対して、真っ向から向かい合っていく幼い彼らの言動は、読み手の心を離さない。内容が激しいのに冷淡な書き方で淡々と進めていく書き方も、魅力の一つなのだろう。”さーっと読めた”理由は、簡単な文章だからではなく、やはり想像を超えた内容だからだと納得した。

戦争の最中、幼い双子の男の子が、小さい町はずれに住む祖母の家に預けられた。粗野で汚く、貧しい祖母、水も電気も何も無い家、町に出れば苛められる日々。厳しい環境の中、二人だけで生き延びようと、自らの弱点を見つけてはそれを克服する方法を考え、自らに課題を課し、精神的肉体的に強くし、また勉学にも労働にも励むのだ。

    Nous decidons d'endurcir notre corps pour pouvoir supporter la douleur sans pleurer.(僕達は、泣かずに痛みに耐えられるように、自分達の体を強くする決心をする。)

    Nous ne voulons plus rougir ni trembler, nous voulons nous habituer aux injures, aux mots qui blessent.(僕達は、もう赤面したりびくびくしたりしたくない。僕達は、罵詈雑言や人を傷つけるような言葉に慣れることを望む。)

そんな中、彼らにとっては初めての、非日常の厳しい現実に次々に直面する。彼らはそれらの出来事を、感情を交えずに事実だけを彼らの日記帳”Le Grand Cahier”に書き記していく。

    Les mots qui definissent les sentiments sont tres vagues; il vaut mieux eviter leur emploi et s'en tenir a la description des objets, des etres humains et de soimeme, c'est-a-dire a la description fidele des faits.
(感情を定義する言葉は、非常に曖昧だ。むしろそれらの使用を避け、対象物や人間、自分自身についての描写だけのほうが良い。つまり、事実に忠実な描写のみという事だ。)

このように文章は、1人称複数Nousが主語で、ほとんど現在形で書かれているのが特徴。現在形というのは、過去形と違って妙に生々しい印象を受ける。

アゴタ・クリストフの処女作”Le Grand Cahier”は絶賛され、世界中の33言語に翻訳された。日本でのタイトルは”悪童日記”なのだとか。確かに以前騒がれたことがあるので、名前だけは知っていたけれど、こんな内容だったとは想像だにしなかった。しかし、なんとも題のつけ方が非常に悪いと私は思うのだけれど・・・彼らは”悪童”なの?

タイトルを直訳すると”大きなノート”となる。英語でのタイトルは”The Notebook”となっているけれど、これはあまりにも単純すぎていて、やはりおかしいと思う。なぜなら、”Grand”という形容詞は、”大きい”だけではなく、”ひどい、非常な”とか、”重要な”、”偉大な”、”上等な”、そして強調の意もある。作者は、このGrandという形容詞に、何か意味を込めているはず、と思うのだけれど・・・”ひどい日記”でもあり”貴重な日記”でもあるはず。

日本の題に戻ると、”悪童”ではなくて、他の言葉はなかったのだろうか?彼らは非常に鋭い洞察力をもって、大人の世界を生き延びている。そして弱者に対しては、大人にはできないような細やかな援助や協力をしている。確かに、現在で言う”罪”に属することを犯してさえも行っているのだが・・・。

こう考える自体、きっと私は彼女の術に陥っているのかもしれない・・・。

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2008年11月24日 (月)

結果相のpour、事実の提示のSi

先日、な、なんと日経平均株価が8000円を切り、7700円台になりました・・・ニューヨークも66年ぶりに8000ドルを切ったとか・・・信じられない値です。戻って欲しいです、早く・・・

友人達と一緒に本を読んでいると、何も考えず普通に使用している簡単な単語にも、そんな使い方があったのかと、びっくりすることがたくさんでてきます。私にとっては、ほんとにあり難い時間です。

その中で、今日は簡単なpourとSiについて。

(Ⅰ)《結果相のpour》
pourというと、目的とか理由とか指す(目的相と言うらしい)だけと思っていたら、なんと結果をも表すことができるんですね。驚きでした。辞書からの例ですが、

 Is est sorti vers midi pour ne rentrer que tres tard.

これを、「彼は遅くにしか帰らないために、正午頃出かけた。」と訳すのは、変ですよね。「そして」を入れると自然に、「彼は正午頃外出し、夜遅くまで帰らなかった」と訳せます。

 Sa voiture a evite un passant pour s'enfoncer dans un arbre.
 「彼(女)の車は通行人をよけて、立ち木に衝突した」

(Ⅱ)《事実の提示のSi》
Si は《仮定・条件》と《間接疑問詞》とばかりと思っていたら、《事実の提示》という分類があるんですね。その中で、”譲歩”とか、”主節で理由・説明を行う”とか、”反復・習慣”というのがあり、これも再発見です。

①”譲歩・対立”:「・・・ではあるが、であるにしても」

 Si vous avez vos idees, J'ai les mienns.

上の文章で、Siを条件や仮定として訳すと、「もしあなたがあなたの考えをお持ちなら、私は自分のを持ちます。」と、変な文章になりますよね。

ここは、Siの節を”事実の提示の譲歩”として考え、「あなたにはあなたの考えがおありでしょうが、私にも自分の考えがあるのです」と訳せば自然。 

 S'il est intelligent, il n'est pas sympathique.
 
「彼は頭がいいかもしれないが、感じが悪い」

②”主節で理由・説明を行う”:
”Si・・・、 c'est [parce] que・・・”
の形を取り、「・・・なのは・・・だからだ」。

 S'il reste chez lui, c'est qu'il attend quelqu'un.
 「彼が家にいるのは、人を待っているからです」

 Si je ne l'ai pas reconnue, c'est parce qu'elle avait beaucoup change.
 「彼女だと分からなかったのは、彼女が昔とすっかり変わっていたからです。」

③”反復・習慣”

 Si je sors sans parapluie, il pleut.
 「私が傘を持たずに外出すると、いつも雨が降る」

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2008年2月25日 (月)

モンテーニュとラ・フォンテーヌの「ハゲタカと鳩」 Montaigne et ”Les Vautour et les Pigeons” de La Fontaine

友人たちと読んでいるラ・フォンテーヌ(Jeab de La Fontaine)のFables寓話集の中で、最近読み終えた話「ハゲタカと鳩 Les Vautours et les Pigeons」の教訓内容が、モンテーニュの生き方にとても共鳴していることに気がつきました。

この話の内容は・・・(教訓の部分のみ仏文を載せておきます)

Fable_0707_2  「(戦争の神)マースが昔、大空全体を混乱に陥れた。あるテーマが鳥たちの世界に論争を起こさせたのだ。

”春の女神がその宮廷につれてくる鳥で、木の葉の下で手本や彼らの響き渡る声でヴィーナスの目を覚まさせるのは、(春の鳥と言われている)ナイチンゲールではなく、また、愛の神の母親の山車を引く(ヴィーナスの山車を引くのは、鳩といわれている)のは、彼ら(鳩)ではなく、鍵型のくちばしに鋭い爪を持ったハゲタカ族だ・・・”

一匹の犬の死がきっかけで、戦争が勃発したと言われている。血の雨が降った。私は決して大げさには言っていない。もし私が詳しく一部始終を話すとしたら、息もできないだろう。リーダー達も死んだ。ヒーロー達も息絶えた。岩の上のプロメテウスは、やがて苦痛が終わると期待した。

鳥達の奮闘振りを見るのは楽しいものだった。死んだ鳥達が落ちて行くのを見るのは哀れだった。勇気、巧妙さ、策略、不意打ちなど、あらゆる手段が使われた。

激しい怒りに我を忘れた両軍は、死んだ鳥たちが呼吸するあの世を一杯にするべき、いかなる手段も惜しまなかった。すべての要素(気、火、大地、水)は、冥界が持っている広大な閉ざされた世界を死者で満たした。

この激昂は、心優しく誠実で首の羽の色が変わる別の鳥族に同情を引き起こした。その鳥族は、このような戦争の和解をするために、仲裁をした。鳩族によって選ばれた使節が、非常によく働いたので、ハゲタカ達はもうつまらないことで争わなくなった。彼らは休戦し、平和条約が結ばれた。

ああ、なんと言うこと!それは、感謝すべき種族の犠牲によってなされたのだ。呪われた種族(ハゲタカ)は、すぐにすべての鳩達を追いかけ、大虐殺を行ない、野山や町をも過疎にした。

気の毒な鳩族は、あまりにも野蛮な種族を調停しようなどと、慎重さが足りなかったのだ。
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野蛮な者達は常に離反させたままにしておこう。地上の残りの安全は、これにかかっている。彼らの中に戦いの種を蒔こう。さもないと、あなた達は彼らと共に平和を手にすることはできない。ついでに言うと、私は黙る。
    Tenez toujours divisés les méchants;
    La sûreté du reste de la terre
    Dépend de là: semez enter eux la guerre,
    Ou vous n'aurez avec eux null paix,
    Ceci soit dit en passant: je me tais.

友人たちと訳した「ハゲタカと鳩」はこんな話です。直訳のため、少々読みにくいですね。きっと話にするならば、もっと技巧を凝らして良い文章を作るのでしょうけれど、今はご容赦ください。ラ・フォンンテーヌの話って、このようにギリシャ神話などがふんだんに繰り込まれていて、表現方法もかなり凝っています。戸惑いますよね。最後の教訓部分も、わかりにくいでしょう?

モンテーニュ(1533-1592)は、ラ・フォンテーヌ(1621-1695)よりほぼ100年前の人です。ラ・フォンテーヌはモンテーニュの生き方に、知恵を見出したのでしょうか?

Barthelemy_2  モンテーニュの生きた時代は、今のイスラム教のシーア派とスンニ派の戦いのように、フランス国内がカトリックとプロテスタントの2つに大きく分かれた宗教戦争(ユグノー戦争1562-1598)の激しい時代でした。

例えば、左の版画のように、1572年8月24日のサン・バルテルミの虐殺では、男女子供を問わずプロテスタント派2700人が虐殺されました。これをきっかけに、オルレアンでは3日間で1200人が殺され、ルーアン、リヨン、トロワと広がり、ボルドー(300人)、アルビ、トウールーズ(150人)など、10月までに27000人の犠牲者が出たのだそうです。(L'histoire de Franceより)

こんなご時勢に、モンテーニュは37歳で法務官という重要ポストを辞職し、宗教色を一切持たない「エセーLes Essais」を書いていたのです。1580年にこれを出版。

彼自身は当然カトリック。しかし、プロテスタントにも理解を示し、例えば、当時プロテスタントだったアンリ4世の侍従をしていた程です。アンリ4世は王位を継承するために、後にカトリックに改宗するのですが、彼の偉大なところは、両方の宗教を認めたあのナントの勅令(1598)を発布するという決断です。(この国民に愛された国王は暗殺され、その子供がルイ13世になるのです。)

モンテーニュのこの態度、争いの種こそ蒔きませんでしたが、争いに背を向け、一人思索の世界に入ったモンテーニュ、まさしくラ・フォンテーヌの言っている『私は黙る Je me tais.』に当てはまりませんか!!

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2008年1月13日 (日)

絵画的半過去(imparfait pittoresque)と物語体不定詞(infinitif de narration) 

今週から、以前のような一週間が始まった。フランス語は、友人達と共に進めるLa FontaineのLes Fablesを読みながら忘れないようにし、イタリア語は、2箇所の異なる学校で勉強を続け進める。

やはり友人達と一緒に勉強するのは楽しい。いろんな話題が刺激になり、もっとやろうという意欲も湧く。イタリア語は、忘れた事を自覚してレベルを下げたら、簡単すぎてしまった。どうしよう・・・復習だと思って続けるかどうか・・・・

(フランス語覚書として)

早速ですが、知らないことを2点教えてもらったので、ここに書いておこうと思います。版画は、同じ題目でギュスターヴ・ドレの作品。

[Livre VI] Fable 2 "Le Lion et le Chasseur"(ライオンと狩人)

Fable_0602lion_et_chasseur

① 直説法半過去の絵画的半過去について

Les Fablesは詩の形を取っているが、現在形が使われることもあるし、単純過去の場合もある。今回の問題は、物語を語っている途中、単純過去形の文中に突然、半過去が出てきたこと。

<<Si tu fais, disait-il, ô Monarque des Dieux,・・・・>>

あまり細かい事を気にしないでも意味は分かるのだが、この方法(単純過去の代わりに半過去を使うこと)は、小説などを立体化させ、臨場感を与える効果があるのだそうだ。その半過去を絵画的半過去(imparfait pittoresque)という。
(「現代フランス広文典」より)

もしこれを声を上げて読むのなら、「おお!神々の王よ!もし貴方がしてくれたら・・・」などと大きな声で感情を込めていうのかな。

ちなみに、その前にあるtuは、詩的文体では、神や王への崇拝を表すのだそうです。決して”お前”などと訳してはいけないのです。難しいものですね。

②不定詞の動詞的用法の一つ、物語体不定詞について

Le Lion sort et vient d'un pas agile,
Le Fanfaron aussitôt d'esquiver,
<<Ô Jupiter, montre-moi quelque Asile,
・・・

太字の部分は、文になっていない。予習している時、おかしいなとは思ったのだけれど、なんとなく分かるので気にしていなかった。でも、本気で訳そうとするならば、これを放って置いてはいけない。

物語中で、ある動作が前の動作を受けて直ちに行われたことを示す為に、過去時制(多く単純過去)の代わりに<de+不定詞>が用いられることがある。これを物語体不定詞(infinitif de narration)という。(「現代フランス広文典」より)

つまり、上の訳は、「ライオンが出てきて、すばやい足取りでやってくる。そのほら吹きは、直ちに身をかわす。」という感じ。

辞書ですと、deで調べ、〔物語の不定法〕という項目を見ると次の例が見つかる。

Et les spectateurs de rire à l'unisson. 
(すると、観客は一斉にどっと笑うのだった。) 

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2007年9月12日 (水)

接続法を使った倒置構文

Cigal_et_fourmi (フランス語覚書きとして)

先日のLa Fontaine の Fablesの解説部分で、見たこともない文型が出てきた。

La visée de La Fontaine n'est pas d'ecrire des contes pour enfants, fussent-ils moraux.

fussent  は être の接続法半過去。現代フランス語では、接続法半過去などあまり使われない。な、なんだ?これは・・・という感じで驚いた。
しかも、接続法が、接続詞無しで使われている!!
さらに、倒置とは・・・???いったいこれは、どうなっているのか・・・

「接続法で主語が倒置される場合は、譲歩を意味する場合がある」との先生役の若いM氏の説明に、私達主婦は”えーっ、そんなのがあるのー?!”一斉に驚いた。
最後のアンダーラインの箇所は、”たとえそれが道徳的(教訓的)であったとしても”と訳すのだそうだ。

〔主語の倒置で、接続法構文〕 ・・・ 「現代フランス広文典」P48
接続詞に導かれずに、願望・仮定・対立・譲歩・時を表す次のような接続法構文では、主語が倒置される。文語。

・Puissiez-vous réussir ! あなたが成功しますように。
   Que vous réussiriez !と同じですね
   辞書のpouvoir を見てみると、〔文、願望:接続法で主語を倒置〕で、「願わくは・・・せんことを、・・・しますように」と訳している。
   Puissé-je l'épouser.  彼(女)と結婚できますように

・Soit un triangle ABC.  三角形ABCがある(と仮定せよ)。
  En supposant que soit un triangle ABC. の前の部分を略しているみたい

・Je l'aimerais toujours, fût-il l'ennemi de mon père.
  たとえ彼が父の敵であろうと、私が彼を愛することには変わりはない。
  Quoiqu'il soit l'ennemi de mon père, je l'aimerais toujours.

・Dussé-je mourir, je le ferai.  死ぬことになっても、私はそうするだろう。
  Dussé にもびっくり。Devoir の接続法半過去。
  Devoir Subjonctif  present    Subjonctif  imparfait
                     doive                    dusse
                     doives                   dusses
                     doive                    dût
                     devions                 dussions
                     deviez                   dussiez
                     doivent                  dussent

    辞書には、dussé-je + inf. として文語、「たとえ私が・・・しても」
  dusses-tu + inf., dut-il + inf. などと変化する、と書かれている。
  Je ne changerai rien à mon genre de vie, dussé-je en souffrir.
     私は自分の生活流儀を変えるつもりはない、たとえそのことで苦しむことがあっても。

このごろ不真面目で、ノートを見直すなどの復習もしないので、新しく勉強したことはすぐに忘れてしまう。その対策として、このブログに書いておくと、気軽に見直しができるので、非常に便利と発見。この「フランス語」というカテゴリーをあまり使っていなかったので、これからこういう風に使えばいいのかと気がついた次第。気が向いたとき、書くことにしよう。

(版画は、ギュスタヴ・ドレの”蟻とキリギリス”)

  

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2007年9月 4日 (火)

フェードル(Phèdre)違い

私は時々、とんでもない勘違いをする。昨年7月にしてしまった問題の単語は”エラスムス”だったが、今回の単語は”フェードル Phèdre”。

この8月からは、友人達と一緒に、フランスの寓話作家ラ・フォンテーヌLa Fontaineの「Fables(寓話)」を読んでいる。主婦5人と若い男性(先生役)の6人で範囲を分担しながらフランス語を訳し、お互いの疑問点、意見などをぶつけ合いながらフランス語の勉強をする、と同時にフランスの当時の文化なども理解できるよう雑談(?)も交えて頑張っている。私以外は、フランス語の授業も受けながら、この会にも参加しているという真面目な方ばかり。全く頭が下がります。

さて、この本の解説部分での話: ラ・フォンテーヌの寓話は3種類の異なるスタイルを受け継いでいるという。その1つが、文明の始まりであるギリシャ時代のイソップ物語。なんと作者であるイソップ(ギリシャ名アイソポス)は、紀元前6世紀の古代ギリシャの人なのだ!(こんなに古い人だとは、知らなかった・・・) 簡潔な物語の中に、政治的意味合いも含めた道徳を説くという方法は、ここからきているのだそうだ。

2つ目は、ローマ時代のフェードルPhèdre(紀元後1世紀B.C.15-A.D.50)によって代表されるような、ドラマチックで風刺的な側面を非常に簡潔な文章で表す、という方法。

3つ目は、東洋的な寓話、ここでの”東洋的”というのは、アジアではなくトルコを代表するようなイスラム文化。異国情緒たっぷりで楽しませるという方法。

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その本によると、フランスでは、ギリシャ語で書かれているイソップ物語とかラテン語で書かれているフェードルの寓話は、子供の頃から道徳的な勉強の為だけではなく、その文の簡潔さ、簡単さからギリシャ語やラテン語の勉強にも使用されているのだそうだ。

この時、私はとんでもない発言をしてしまった。「フェードルが簡単な文章とはとても思えない!」と。ローマ人であるフェードルを知らない私の頭の中はすべてを忘れ、すっかりラシーヌの「フェードル」の世界に入っていた。

夫の前妻の息子イポリットを愛してしまったフェードル。イポリットの敵国の女性との恋を知り、嫉妬に狂い、彼を冷たくあしらい危険な戦場に送るフェードル。彼女は乳母を前に、血を吐くような告白を延々とするのだ。

私はパリで見たあの舞台の光景が忘れられない、衝撃的だった・・・。出演者すべてのせりふは、とてもとても長い。どうして、それが"簡単"なのか、私には全然理解できなかった。

今思えば、顔から火が出るようなとんでもない間違い。本に書かれているのは、フェードルというローマ時代の寓話作家。それをギリシャを舞台にした作品とはいえ、17世紀の本の題名と一緒にしてしまった私・・・。Googleで”フェードル”と検索しても、ラシーヌのフェードルがほとんどで寓話作家は出てこないではないか!

と、言い訳しても始まらない。来週、真っ先に友人達にこの訂正をしよう。もし、これを読んでいたら、笑って許してください。

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そこで、フェードルの寓話がどんなに簡単なのか知りたくて探してみた。見つかりましたよ、ラテン語の原文がフランス語訳付きで!こちらです。

Famæ coacta vulpes alta in vinea

Uvam adpetebat, summis saliens viribus.

Quam tangere ut non potuit, discedens ait:

Nondum matura es; nolo acerbam sumere.

Qui, facere quæ non possunt, verbis elevant,

Adscribere hoc debebunt exemplum sibi.

   

これは、皆よく知っている「狐と葡萄」(高い所の葡萄が取れなくて、”すっぱい葡萄なんか食べたくない”などと言い訳をする狐の話)の話で、最後の2行のフランス語訳は、「自分の上にあるようなこと(別のサイトの訳ですと、自分に出来ないこと)を過小評価するような人は、この例をしっかり覚えておくべきだ。」と諌めている。

他にも訳せば面白いのがたくさんあったので、「フランス小話」の中にフェードルの寓話を訳したのを入れても面白いかも・・・と喜んだのもつかの間・・・

考えてみれば、これはイソップの話ですよね?フェードルの名前が日本で有名でないのは、彼がイソップの話をラテン語に訳しただけという理由なのかもしれない。さらに、ラ・フォンテーヌの寓話も、フェードルの話と同じのがあるかもしれないと考え、フェードルの目次とこの本の目次を比べてみると、なんと同じ題名がいっぱいあるのを発見!

きっと内容は時代や地域などを考慮し、変化をつけているかも知れないが、本質的には同じようだ。結局フェードルを訳す、ということはイソップの話で、しかもそれはラ・フォンテーヌが修飾して話を書いている、ということになる。

なあんだ、そうだったのか。だから、イソップとかフェードルの話は、ギリシャ語やラテン語の勉強に使われたのね。納得。フェードルを訳す試みは、やめました。

 

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