カテゴリー「フランス語 le francais」の16件の記事

2010年12月25日 (土)

ヴォルテール《哲学辞典》とエラスムスの聖職者批判

Volphilo1 ヴォルテールを読むなんて、エラスムス同様に考えられなかった事だけど、文学の授業や友人達と読んでいるヴォルテールの作品などから興味がわき、この本をアマゾンで頼んでしまった。フランス語を続けていたおかげで、こんなところにまで世界を広げる事ができ、ほんとうに有り難いと思っている。

エラスムスとヴォルテールを交互に読んでいると、皮肉たっぷりに非難している方法とか、現状批判という二人の目指す方向があまりにも似ている(違いは当然あるが)ので、どちらが言っているのかこんがらがってしまう程だった。ヴォルテールもエラスムスを尊敬していた、と私は確信している。二人とも、イギリスに行って初めてその社会の見事さに感心し、目を開かされたという同じ経験をしている。面白い。イギリスって、よく歴史を知らないけれど(受験では世界史を取ったのに)、きっと偉大な国なのね。

200年も差があるのに、二人の批判内容が同じところを見ると、社会の矛盾はあまり変わっていず、やはり、フランス革命は起こるべくして起こったのかもしれないな、とも思う。ヴォルテールは言っている。”やれるなら何事によらずとことんまでやるのが人間であるから、この不平等は極端なものとなった”(《哲学辞典》”平等”)。そう、当時のフランス社会は、”極端”だったのかもしれない。

ところでこの《哲学辞典》は、”ヴォルテール自身の考察”と言いかえてもいいような気がする。”哲学”と書かれていても、恐れるなかれ、モンテーニュがエッセイで試みたのと同じ技法を使っていると考えていい。つまり、思索を集大成したもの。ただし、モンテーニュのような貴族的正当な思索ではなく、どちらかと言うと皮肉・批判も込めた啓蒙的考察と言えるだろう。

エラスムスの批判の仕方も素晴らしかったが、ヴォルテールの皮肉も負けていず、すばらしい。ここに、”神父”についての、二人の書き方を比べてみたい。口調の違いも味わってほしい。

---***---***---

まずは、エラスムスの司教批判部分。《痴愚神礼讃》57章から

Erasme1 王公の好敵手としては、至高の教皇、枢機卿、司教がたがおられますね。甲乙なしどころか、王公連中そこのけという勢いです。でも、そのうちのどなたかが、反省してごらんになったら、こういうことがおわかりになりましょうよ。

つまり、雪を欺く真っ白いその法衣こそ、汚点のない生活の表徴であるし、同じひとつの結び目で繋がっている二つの角のあるミトラ(頭にかぶるもの)こそ、新約と旧約とに対する均等でしかも深遠な知識があることを示しているし、両手を包む手袋は、秘蹟を授けるためにはいっさいの人間生活の穢れから清められておらねばならぬことを示すのだし、その法杖は、託された羊の群れを監視する旨の象徴だし、前に押し立てた十字架は、人間のあらゆる情念に対する勝利を意味するのだということ、などです。

こうしたことや、その他いろいろなことに思いをひそめたら、悲哀と不安との日々を送るはずでありますまいかしら?ところが、現在では全くうまくしたもので、これらの高僧たちは、美衣飽食磨る以外に何も考えません。子羊の群れの世話は、キリストご自身なり、「兄弟(フラテル)」と呼んでいる連中なり、自分達の代理なりに任せきりなのです。自分達の「司教」という称号が勤労と注意と配慮とを意味することは、お忘れになっていますね。 ところが、いざ金儲けという段になると、このご連中も正真正銘の「司教」になる始末。つまり、そういうときには、「目をおさましになる」わけです。

次は、ヴォルテール。《哲学辞典》神父 abbeから

Voltaire1 「どこへお出かけか、神父様、・・・(聖職者の見持ちを皮肉った当時の歌謡の一説。どこへ、お出でか、神父様、蝋燭なしでおでかけとは、目指す御方も見えまいに。娘子と会うんじゃ、おわかりだろう、という歌詞)」。貴方は神父が父親を意味することをごぞんじだろうか。貴方も父親になれば、、国のお役に立つことができるのだ。おそらく男のなしうる最高の勤めを果たせば、貴方から思考する存在がうまれるであろう。そうした行為には神聖な何かがふくまれているのだ。

・・・神父は彼らの精神上の父親であったのだ。だが、時代によって同じ名称がなんと違った事がらを意味することか。精神的神父は他の貧者たちの先頭に立つ貧者であった。ところが貧しい精神的父親達は、200年このかた40万リーブルの年金を受けているのだ。今日ドイツの貧しい精神的父親たちは、一個連隊の護衛をかかえているのである。

貧乏の誓いを立てた貧者が、つまりは支配者なのだ。これはすでに言われてきたことだが、何千回も繰り返すべきであり、許しえないことである。この悪弊は法の訴えるところであり、宗教の憤るところである。着物も食物もほんとうの貧者たちが、神父様の門口で哀訴の叫びをあげているのだ。

だが私は、イタリアやドイツやブランドルやブルゴーニュの神父様たちがこう述べるのを聞いている、何故われわれが財産や名誉を集めてはならないのか、・・・司教たちはそうなっているではないか、・・・彼らのひとり(ローマ教皇)は国王以上にのし上がっている、我々もできるだけ真似をさせてもらいたい、と。

神父様がたよ、貴方たちの言い分はもっともだ。土地を奪うがよい、それは強きものや巧みな者の奪い得である。貴方たちは、無知と迷信と狂乱の時代を利用して我々の遺産を奪い、我々を足下にふみにじり、不幸な人々の糧を私服で肥やしてきた。だが、理性の日の到来におびえたまえ。

---***---***---

どうです?批判視点は、そっくりですよね。宗教改革の前の人エラスムスと、後の人ヴォルテールの書く内容が同じとは、ほんと驚き!!!あんな血なまぐさい争いをしたのに、カトリック内部では大した変革はなされなかったということなのでしょうね。

モンテーニュは、宗教関係については一切触れていない。当然ですよね、争いが一番激しい頃、塔に籠って自分の思索にふけり、エセーを書いたんですもの、もしどちらかを擁護するような事を書けば、命も保障されなかったはず。賢者、危うきに近寄らず、彼はまさしくその道を選んだわけです。

しかも、彼の思索は、なにか社会の対象に対してではなく、人間そのものについてだし、しかも、まず彼はネガティヴな皮肉は書かないのだ。まっすぐに素直に豊かに、自分をそして人間を描きだしている。

エラスムスの皮肉は、素直で心地よい。ヴォルテールは弁論技法に自信を持っているのか文章は明解で、理論をぐいぐい読者に突き付け、圧倒される。時にかなりの棘を持つこともある。読んでいて面白いが、その強さゆえに時に心が重くなることも。

その点、モンテーニュはいいなあ。いつもこころが穏やかになる、ああ、人間ってみんな同じなんだと思える。

たしかに、人間というものは、驚くほど空虚な、多様な、変動する存在だ。」

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2010年4月17日 (土)

大人のランボーの写真発見 Artur Rimbaud、la photo retrouvee

数日前のfrance2のニュースで、アルチュール・ランボー(Artur Rimbaud 1854-1891 全身転移した癌のため、マルセイユで没)が詩人であることを放棄し、中東やアフリカで交易していた時代の、つまり大人のランボーの写真が発見され、現在グランド・パレで見られることを知った。

Rimbaud1

Rimbaud2 右から2番目、女性の隣の人物が彼だという。

へー、あのハチャメチャな若い詩人も、こんな一見普通の落ち着いた(ように見える)大人になるんだ・・・・となんとなく、納得行くような、行かないような・・・

Le mondeの記事によると、この写真は、2年前、ある古道具店にあったひと固まりの本や絵ハガキの中にあったという。二人の書店主が、偶然その山の中にこの写真を見つけ、飛びついた。それらの写真の1枚の裏側に、《Hotel de l'Univers》と書かれていたからだ。

その名は、突然詩の創作を辞め、諸国を放浪して強制送還されたり、軍隊に入っては脱走したり、貿易商の会社と契約しても数年で会社閉鎖、兵器商人として商売を始めてもうまくいかず、結局貿易代理店のような仕事をしたりと、とにかく刻々と変化する生活を送っていたしていたランボーが、晩年滞在していたアデン(イエメンの港町、現在首都)でのホテルと同じ名前だったのだ。彼らは、もっと詳しく調べるために、そのひと固まりの古物品を購入した。

Rimbaud_jeune その後、専門家や科学者等に調べてもらい、目の形、位置、あごの形などが、若いランボーと同じ人物であると判定されたらしい。

左の若いランボーと同じ人に見えます?

15歳頃から20歳までの、たった5年間程で作成された新鮮な感覚の詩が、当時の人のみならず(けなす人も大勢いたが)後の世代の多くの人に驚きをもたらす。シャンソンの中でも、彼の詩は朗読されている。

私が彼の詩を知ったのは、9年ほど前習っていたフランス語の教材 PANORAMA3 の中でだった。あの時に受けたショックと巧さに感激したのは忘れられない。

それは有名な、《Le Dormeur du val 谷間に眠る男》でした。

C'est un trou de verdure ou chante une riviere
Accrochant follement aux herbes des haillons
D'argent; ou le soleil, de la montagne fiere,
Luit: c'est un petit val qui mousse de rayons.

Un soldat jeune, bouche ouverte, tete nue,
Et la nuque baignant dant le frais vresson bleu,
Dort; il est etendu dans l'herbe, sons la nue,
Pale cans son lit vert ou la lumiere pleut.

Les pieds dans les glaieuls, il dort. Souriant comme
Sourirait un enfant malade, il fait un somme:
Nature, berce-le chaudement: il a froid.

Les parfums ne font pas frissonner sa narine;
Il dort dans le soeil, la main sur sa poitrine
Tranquille. Il a deux trous rouges au cote droit.

ここはみどりの穴ぼこ 川の流れが歌をうたい、
銀のぼろを狂おしく岸辺の草にからませる
傲然と立つ山の峰からは太陽が輝き
光によって泡立っている小さな谷間だ

若い兵士がひとり 口をあけて 帽子も被らず
青くみずみずしいクレソンにうなじを浸して
眠っている 草むらに横たわり 雲の下
光り降り注ぐみどりのベッドに 色あおざめて

グラジオラスに足を突っ込んで ひと眠りしている
病んだ子供のようにほほ微笑みながら
自然よ あたたかく揺すってやれ 寒いのだから

かぐわしいにおいに鼻をふるわせることもなく
かれは眠る 光をあび 静かな胸に手をのせて
右の脇腹に赤い穴がふたつのぞいている

        -宇佐美斉 訳 ちくま文庫ー

それにしても、彼はなんと嵐のように激しく人生を駆け抜けてしまったのだろう・・・ヴェルレーヌ発砲事件の後、ランボーは実家に戻って有名な《地獄の季節》を書きあげるのだけれど、書きながら奇声をあげたり泣き叫んだり、とにかく精神が最高に敏感になっている状態で書いていたらしい。

ルモンドのコメント欄に、”写真はでてきても、みんなが聞きたいと思っている彼の声は聞こえない”と書かれていた。ほんとにそうねえ・・・。私の頭の中では、映画「太陽と月に背いて」で見事にランボーを演じていたデカプリオのしぐさや言い方が、本物のランボーと結びついてしまっている。

悪ガキっ子?小悪魔?本物の彼は、どのように歩き、どのように話していたのだろう?写真がでてくるのも良いけれど、人物像が見えてくる証言などがでてきた方が、面白いのだけれど・・・。

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2010年3月 5日 (金)

フランス語:記事一覧

「フランス語」の記事一覧:

2010-04-17  大人のランボーの写真発見

2010-02-22  準1級 合格しました
2010-01-30  ある秘密 Un secret フィリップ・グランベール
                   Philippe Grimbert
2009-10-04  La petite fille de Monsieur Linh リンさんの小さな子
2009-10-03  Poisson d'or par Le Clezio 黄金の魚 クレジオ作
2009-03-26 《Ou on va, Papa?》を読んで

2008-11-28 ”Le preuve”と”Le troisiem mensonge”を読み終えて
2008-11-25 ”Le grand cahier”を読んで
2008-11-24  結果相のpour、事実の掲示のSi
2008-02-25 モンテーニュとラ・フォンテーヌの「ハゲタカと鳩」
   Montaigne et ”Les Vautour et les Pigeons” de La Fontaine
2008-01-31 絵画的半過去(imparfait pittoresque)と
                   物語体不定詞(infinitif de narration)
2007-09-12 接続法を使った倒置構文

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2010年2月22日 (月)

準1級 合格しました。

Kenninryu1

上の写真は、小泉淳氏による建仁寺法堂天井の双龍図(平成14年作)。

19日(金)から2泊3日の京都旅行を楽しんできました。冬の京都は底冷えのする寒さで活動的に廻れないのかと思っていましたら、良い方にはずれ、連日快晴、比較的暖かく、せっせとお寺を訪問。

梅にもまだ早く、緑の葉も少ない光景は少し寂しいものがありますが、それでもそれぞれのお寺の敷地内の庭園や方丈は素晴らしく、感激の連続。主人とまたこれからも時々来ようね!と話し合いました。

さて、その京都の拝観記なども書けばいのですが、その前にどうしても伝えたいことがあります。それは・・・フランス語検定準1級合格です!2次試験の合格基準点は21点、私の得点は29点。最終合格率は、22.7%だそうです。

A4大のCertificatと共に入っていたはがき大の最終試験結果通知の右側には、

  ≪「仏検」合格です、おめでとうございます!
    あなたの努力は報われ、フランス語の実力は認められました。≫

と書かれています。確かに合格は、”あなたの努力”の賜物かもしれませんが、ここまで自分を精神的に持続できたのは、読書会を続けている仲間のおかげだと思っています。この友人達は感心するほどの勉強家ばかり。彼女たちの弛まぬ努力を横目で見ていたからこそ、怠けやすい私も頑張れたと確信しています。ほんと感謝です。

面白くないかもしれませんが、一応、2次試験で私に渡された紙に書かれていた議題を書いておきます。

  A:高校の授業料無料化に対して、どう思うか?

  B:結婚後の夫婦別姓について、どう思うか?(だったかな?)

AについてもBについても、まったく考えていませんでした。紙を受け取った瞬間、しまった!・・・そういえば、こういう話題もあった・・・。とりあえず、すぐにAを選択し、いろいろアーギュメントを考えるけれど、なかなか適当な例が見つからない。壁越しに、前の受験者の流暢に話す声が聞こえていて・・・頭の中で、”とてもあんなにうまくはしゃべれないなー”などと思いながら考えるので、さらにまとまらないのです。3分って、あっという間に過ぎ去るんですね。まあ、こういう状態で面接室に入ることになったのです。

私がすでに用意していた内容は、

・政権交代    ・裁判員制度   ・捕鯨問題
・子供手当    ・格差社会     ・死刑制度
・オバマ氏のノーベル賞など。

政治や裁判をはじめ社会に疎い私が、結構真剣にそれらの意義を考えました。日頃使っていない部分の脳を使うのは、ほんと疲れます。あれから1カ月過ぎただけで、すっかり忘れてしまいました。

とりあえず今年1年は、語学としてはおとなしくフランス語だけとし、レベルアップに努めます。そして、昨年更新できなかったこのブログの更新、特に教会の記事を書くことに努めたいと思います。

Maiko1

さてこの写真は、高台寺から建仁寺に向かう”ねねの小路”で撮ったもの。優美で素敵でした・・・さすが京都!!

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2010年1月30日 (土)

ある秘密 Un secret フィリップ・グランベール Philippe Grimbert

Unsecret1 フィリップ・グランベール Philippe Grimbert という精神科医が書いた、「Un secret(ある秘密)」という本の存在を知った。

なんでも2004年の高校生が選ぶゴンクール賞に輝き、また雑誌「エル」の読者文学賞にも選ばれた本なのだそうだ。

ユダヤ人である作者の自伝書だそうで、幼い頃の妄想が、スポーツ好きの健康的で明るい両親に隠された過去に結びついていた、というなんとも不思議な悲しい物語。

Le Livre de Pocheで出版されていたのでそれを購入しようとして、表紙を見てびっくり。なんとパトリック・ブリュエル Patrick Bruel が二人の女性と一緒に出ているではないですか!

この本はホロコーストの話、と聞いていたのに、不倫の話なの??歌手のパトリック・ブリュエルにこういうのを演じさせると、あの魅力的な強い視線を上手に使い、見事に演じる。十八番といっていい。

残念ながら私も彼の声は好きなので、CDは1枚だけだけど持っている。

でも、どうなってるの?まあ、読めばわかる・・・と安易に読み始めたのですが、う~ん、辛い・・・読みにくい・・・。回想部分に現実と空想がまざり、当時はこう思っていたけれど事実はこうだったようだと言い換える部分が多くて、次第にごちゃごちゃになってきて・・・まあ、私の力はこの程度なので仕方ない・・・。

(ちょっと言い訳: フランス語版アマゾンの書評によると、この本はすばらしいが、本の最初の部分の書き方があまり良くない、と書かれていた。同感、同感・・・)

Unsecret2 もう、お手上げと思っていた時、古本屋で日本語訳が300円台で出ていたのを見つけ、悔しいと思いつつ、つい買ってしまった。日本語だとあっという間に、読めるんですね。

第2次大戦中、パリのユダヤ人にも当然ながら危機が訪れた。確か映画「終電車」でも主人公カトリーム・ドヌーヴのユダヤ人の夫は、逃げる為に用意された列車に乗らず、結局終戦まで劇場の地下で隠れて過ごす、という話もありましたね。彼の両親だけでなく、親族全体にも厳しい運命は容赦なく訪れる。

厳しい社会的現実と、男女間の愛とが交差して、一瞬親戚一同が信じられない事が起こってしまう。(この場面では、思わず映画「ソフィーの選択」を思い出してしまった・・・)。こういう過去を知ってしまった主人公は、更に調べを進め、両親の知らない現実を見つける。ここもほんとに読んでいて辛い。

「ある秘密」は2007年に映画化されたようです。父親役がパトリック・ブリュエル、きっと素敵で不敵な父親を見られたでしょうね。魅力的な背中を見せているのが作者の母親役で、後ろのかすんでいる人物が・・・。フランス映画の傾向を考えると、この話は本質的にフランス人に好まれる題材です。下のサイトでその一部分を見ることができますが、作者の本来の意図は、当然その場面では無く、どちらかというと、日本語訳の本の表紙のような気がします。これを見るだけで、今の私は胸が締め付けられます。

http://www.allocine.fr/film/fichefilm_gen_cfilm=110700.html

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2009年10月 4日 (日)

La petite fille de Monsieur Linh リンさんの小さな子

La_petite_fille 以前読み始めた頃に少し書きましたが、もう次の日には読み終えていたほど、夢中で読んでしまった本。

戦争で息子夫婦を失い、ただ一人残った息子夫婦の小さな娘を抱え、バッグには母国の土を忍び込ませて亡命してきたリンおじいさん。

同じ国からきた人々とは交流できず、年配で、また言葉も解らない彼には非常につらい世界。思い出すのは、光り輝く太陽の下、緑の美しい故郷の話ばかり。その情景が、今いる彼の街(フランスと思われるが、街名も国名もでてこない。)の、寒く灰色の空と比べて、夢の中のように美しい。

外出を勧められたリンさんは、小さな子を寒さから守るためにありったけの服を着せ、寒く暗い未知の街に繰り出す。孤独なりんさんが知り合ったのは、公園でタバコを吸っていた年配の男性バルク。言葉は発するもののお互いわからないので、ジェスチャーを交え、また心で会話し始める。

バルク氏から女の子の名前を聞かれて、リンさんは、「Sang diu」と答える。母国語では、「穏やかな朝」という意味らしいのだが、バルク氏はそれを「Sans Dieu」(” without God”の意)と発音するところが、なんだか読み手としては悲しい。

二人の老人は、言葉の限界など関係なく、どんどん心を通わせていく。バルクさんがにリンさんをカフェに誘ってくれた御礼に彼にタバコをあげたいと、難民の世話人にタバコを頼み、また、それを彼に差し出す前のリンさんの気持ちなどが切々と伝わってきて、ほんとうに胸が熱くなる。

このようにささやかではあるけれど、抱きしめたくなるような暖かい交流を重ねる二人。しかし、運命はそれを続かせてはくれない。最後のリンさんの焦る気持ちは、みんなの胸を締め付けるだろう。そして衝撃の最後。

Bruit_trousseaux でも、映画「髪結いの亭主」のような最悪のパターンではなくて、ほんとよかったー。きらっと光る本です。日本語訳もみすず書房から「リンさんの小さな子」として出ているようですので、図書館でも見つかるでしょう。お勧めです。

よく考えるとそういえば、フィリップ・クローデルの本は、過去のに2冊接していました。一冊は「灰色の魂」、随分前に図書館で借りた日本語の本で読み始めたのですが、題名と同じように、あまりにも暗い暗い話で、途中で期日がきて返却してしまいました。雨交じりの灰色の空の下、少女の死体発見から始まる物語。記憶は薄れているので、いつかまたチャレンジしたいと思います。

もう一冊は「Le Bruit des trousseaux」。”鍵の束の雑音”と訳していいのでしょうか。日本語訳はまだなさそうです。クローデルは若い頃、11年間もの間週に3回刑務所に通い、囚人達に文学を教えていたそうで、服役していたいろんな人とのかかわりを断片的に書いたもの。先生として犯罪者達と係わっていたものの、やはり心の奥には隠せない緊張感が漂っていていたのを覚えています。

フィリップ・クローデルの作品はどちらかというと暗いのですが、彼のフランス語は変な癖も無く気負いもない自然な文章なので読みやすく、気に入っています。

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2009年10月 3日 (土)

Poisson d'or par Le Clezio 黄金の魚 クレジオ作

Poisson_dor 難しい文章ではないのに、読み終えるのに随分時間がかかってしまいました・・・疲れた、という感じです。

理由は、どうしても面白さが見出ず、事務的に電車の中だけで読むことにした為。私の場合、電車に乗っている時間はかなり少ないので、全然進まないことになります。いい訳ですが・・・

幼い頃、誘拐されたアフリカの女の子が、奉公先の家を逃げ出し、様々な経験をしていく物語。

誘拐された時に暴行を受け、片耳が聞こえなくなっているライラ。奉公に出され、最初の主人だったおばあさんだけにはかわいがられ教育を受けたものの、後の主人は非常に冷たく、家を逃げ出す。落ち着く家族も友人もいない彼女は、それ以降、厳しい放浪の人生を歩まなければならなかった・・・・。

場面は、アフリカからフランスのパリへ(パリの多くの道路名や駅名が出てくる)、次にアメリカ(ボストン→シカゴ→サンタモニカ(だったか?))、再び南フランス、そしてアフリカへ。

親切にしてくれる人に出会ったかと思うと、簡単に何らかの事情で去ってしまい、次に誰かに出会い、また分かれるというパターンの連続に、いささか疲れました。2ページほど読み進めると、もう別の場面になっている。どうしてもう少し落ち着かないのかしら、と疑問ばかり・・・。

この本は、”北アフリカ系労働者の貧困とヨーロッパ文明の醜さを映し出した”とウィキペディアでは説明されていました。確かにそういう場面はあちらこちらにちりばめられているけれど、社会的矛盾は、ヨーロッパだけでなく、ライラの故郷である北アフリカでも大手を振っているではないでしょうか!なんだか、腑に落ちない。

ノーベル文学賞を取った作家の文章だからと期待していたのだけれど、私にとってこの本は中途半端で、内容的にも文章表現も物足りなくて残念(ただ、最後の場面を除いて)でした。主人公に感情移入が出来なかった、というのがその大きな理由でしょうか。

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Clezio1 後で気づいたのですが、”黄金”というのは、ひょっとして砂漠の事かもしれません。夕日とか朝日など太陽に照らされると、砂漠は黄金のように輝くのでしょうか?エジプトの旅行で砂漠を見たのですが、その砂はさらさらと気持ち良く、確かに美しかったです。飛行機から見たときも、それはそれはどこまでもどこまでも永遠に続くかと思われるほど広がっていました。

しかし、その美しい砂漠も現実はとても厳しい世界。矛盾多いそういう世界で生まれ、身寄りもなく、生きていかなければならない黒人の少女の人生は、想像を絶するのかもしれない。今頃になって、クレジオの訴えたかった事柄が見えてきたような気がします・・・。

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2009年3月26日 (木)

《Ou on va, papa?》を読んで

Ou_on_va_2 「すぐ読める本だから、読んでみて」と、ポンと友人から渡された右の、Jean-Louis Fournier著『Ou on va, Papa? 』((僕達)、どこ行くの?パパ)という本。昨年(2008年)、”PRIX FEMINA”という賞を獲得したという。

PRIX FEMINAという賞は知らなかったので、調べてみると、雑誌FEMINAが雑誌LA VIE HEUREUX協力の下、1904年、ゴンクール賞に対抗して創立された賞なのだそうだ。審査員は賞の名前の通り、全員女性だとか。

この本、昨年8月20日に発刊された直後から、出版のStock社にはメールや手紙が押し寄せ、瞬く間にフランス中を感動の渦に巻き込んだのだそうだ。

女性達がこの本を選んだ理由は良く分かる。これは、生まれた子供が二人とも重度の障害者だった父親の、長年の心情が書かれている本なのだ。

連続する日々の生活は、想像を絶する状況だったのだろう。しかし、作家でありまたテレビのディレクターでもある彼は、母親が子供を見る姿勢とは少し異なり、一歩引いた見方で、厳しい現実や絶望、そして子供へのかなわぬ夢までもさらりと書き流している。

この本を実際に障害者の子供を持つ親が読んだら、どう思うだろう?反感を感じる箇所も沢山あるように思われる。難しい・・・

しかし、これがもう白髪になってしまった彼の、長年悩み苦しんだ後の素直な赤裸々な声なのだと思った。

・・・・

もし、彼らが文字を読めるようになったら、先ずタンタン(有名なかわいい漫画)を買おう!そして”Signe de Piste”シリーズ(少年冒険小説らしい)、そしてアレキサンドル・デュマ、ジュール・ベルヌ、それからプルースト・・・

しかし、彼らは決して読むことはできないだろう。たとえページの上の文字がはっきりしてきても、彼らの頭の中では、それらはぼやっとしているだけなのだろう・・・

・・・ 彼は、それらを絵と思っているのかもしれない・・・それとも、蟻の子供と思っているのかもしれない。彼はそれらをつぶそうとして手を伸ばしても、それが逃げないので不思議に思っているようだ・・・

・・・・・

私は、『ハンディキャップ handicape(フランス語的スペル)』という言葉が好きではない。だって、それは英語の言葉だし、『帽子の上の手』という意味じゃないか。

『異常 anormal』という言葉も好きではない。それは特に子供に使われる。

『normal 普通、標準』というのは、どういうことなのだろう?あるべきなように、存在しなければならない、つまり、平均、普通、凡庸であるということか。私は、『普通』が好きではない。それより上か、下でも良い。とにかく、他のみんなとは違うのが良い。

私は、『他の人のようではない』という表現を使いたい。だって、私はいつも他人が嫌いだから。・・・

・・・ 私が子供達の事について話すとき、彼らの事を『他の人のようではない』子だと話す。なんとなくはっきりしない表現だが。

アインシュタインもモーツアルトもミケランジェロも、他の人たちとは異なっていた。

・・・・・

なんと彼の奥さんは、3人目を妊娠し、迷った後生むことにした。そしてかわいい女の子の誕生!ブロンド髪のかわいい正常な赤ちゃんだった。そしてその後、なんと母親は子供達の元を去ってしまうのです!

しかし、彼は奥さんに対して泣き言一つ言わず、たださらっと”去った”とだけしか書いていない。他の辛いことも淡々と書き流している。

・・・・・

Mathieu(長男)は、背中がどんどん曲がっていった。金属のコルセットを巻いていたのだが、何の足しにもならなかった。そのシルエットは、土を掘り続けた人生を送った田舎の年老いた農夫のように見えた。彼を散歩に連れて行っても、彼は足元しか見えない。空を見るなんてとてもできないのだ。・・・

それでも曲がり続け、とうとう肺を圧迫し、呼吸も困難になってしまった。背骨をまっすぐにする手術を受けなければならなかった。

手術は行われ、彼はまた完全にまっすぐになった。(il est totalement redresse.)
3日後、彼はまっすぐのまま亡くなる。(il meurt droit.)
結局、彼に、空が見えるようになされたはず手術は、成功したのだ。

・・・・・

なんとも辛いでしょう・・・この表現。女性だったら使えないですよね。

文章が短く、簡単な単語ばかりなので非常に読みやすい上に、紙上に余白が多いので、ゆったりした気持ちで読み進めることができます。わかりにくい所は読み飛ばせばいいので、初中級も十分に味わえる本ではないでしょうか。ただし、現実ではない想像が多いので、条件法を習っているとそのニュアンスの違いが非常によくわかります。

ちなみに、この『Ou on va, Papa?』という題は、次男のThomasが声として発することのできる唯一の文章です。

(しばらく書きません、と言っておきながら、すぐ書いてしまうところがいやですね、全く・・・。でも、ちょっと良い本だと思ったもので、書いてみました。また、気分転換にもなりますし・・・)

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2008年11月28日 (金)

”La preuve”と”Le troisiem mensonge”を読み終えて

La_preuve_2 ”Le Grand Cahier”(悪童日記)は”La preuve”と”Le troisiem mensonge”を併せて3部作(trilogie)を成しているのだそうで、第一作が前述のようにあまりにも衝撃的で面白かったので、残りの2冊は友人に借りずに、購入することにしたのですが・・・

いざ購入してみると、なんと一日半で2冊とも読み終えてしまいました。やはり、文章がとても易しいし、一体どうなっているのだろうと、次へ次へと読んでいくと、いつの間にか終わってしまったのです。もうフランス語を読んでいるという感覚は無くて、日本語のページを次々にめくっているようでした。ちなみに、この2冊の日本語タイトルは、”ふたりの証拠”と”第三の嘘”だそうです。

はやり、Agota Kristofの世界は、”C'est egal”と同じなのですね。知らず知らずのうちに、現実の裏側の世界に入り込んだような、迷宮に入ったような、不思議な世界に連れて行ってくれます。

それにしてもこの3部作は、なんという見事な構成をしているのでしょうか!!

そして、構成だけでなく、文章の形態を変化させ、つまり、1作目はNous(私達が主語)の現在形で説明文が多く、2作目はLucasとかClausとかil(彼、3人称単数形)が主語で会話が多く、3作目はJe(私)が主語で会話と説明文が半々ぐらいなのですが、これがなんとも・・・複雑にさせるテクニックの一つかもしれません。

Troisieme_mensonge 1作目では、双子の子供の名前は出てこなくて、2作目”Le preuve”で初めて、町に残った方がLucasで、国境を越えたのがClausだと分かる(2人の名前は、文字を入れ替えてできる”アナグラム”になっていると、友人から教わりました。)のですが、う~~ん、おかしい・・・何かおかしい・・・ひょっとして、「24人のビリー・ミリガン」(ビリーは多重人格者)みたいなのかな?と思ったりして・・・いろいろトリックを考えながら読んでいくのは楽しいのですが・・・

一作目とは書き方が全然違うし、あの勢いがぜんぜん見当たらないし・・・同じ舞台である町の人たちが、Lucasが双子の一人だと知らないのはおかしいし・・・・とにかく読者はどうなってるんだろう?と疑問を感じながら、そして土台が揺らぐような不安な感情をも持ちながら読み進めていくハズ・・・このLucasは、一体誰なのか?そしてーー、ドギャーーン!!

3作目”Le troisiem mensonge”では、静かな語り口調で現在と過去の話が入れ替わりに次々出てきて、読者の疑問の方向も変わっていきます。う~ん・・・この双子は・・・・・?とにかくこの3作目は、いえ1作目も2作目も同じなのですが、絶対的な孤独、苦悩、絶望が取り巻いています。生きて行くことはほんとにつらい・・・。

特に2作目のMathiasの存在、LucasのMathiasに対するあまりもの愛情を不思議に思っていたのですが、今3作目を終えた時点では、その愛情が別の意味をもって重く悲しく、人間の愛の果てしなさを感じられずにはいられません。

ネットでAgota Kristofのインタビューを見つけました。その題は”L'amour de la vie jusque dans l'enfer”というもの。”人生の愛、地獄までも”とでも訳せばいいんでしょうか?まさしくこの3部作をまとめた言葉だと思いました。でも・・・ほんとに胸が苦しい・・・

”Un livre, si triste soit-il, ne peut etre aussi triste qu'une vie”
(一冊の本が、たとえそれがどんなに悲しくても、一つの人生ほど悲しくはありえない。)

既に読んだ友人達がこの本の話をするときは、なんだか奥歯に物が挟まったような、なんだか煮え切らないような話し方をしていた理由が、今よくわかります。内容を暴露しないように、努力してくれていたんですね。

本の表紙を見直すと、これらの写真は見事に内容を象徴していますね。でもこれって、映画にできるのでしょうか?

あまりにもこのシリーズに没頭したので、未だに私自身が、この双子の生きた世界に居るような気がしてなりません。つらい物語なのに、後味は全然悪くないのです。でも、その余韻がずーーと残っているような・・・いえ、しばらくその余韻の中に居たいような気分です。

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2008年11月25日 (火)

”Le Grand Cahier”を読んで

Grand_cahier_2

友人から”簡単な文章なので、さーっと読めるわよ”と言われ、借りていたフランス語の本”Le Grand Cahier”を読み終えた。確かに”さーっと読めた”のだけれど、ちょっとショックで、その後しばらくボーッとしていた。

その作者、Agota Kristof(アゴタ・クリストフ)は、ハンガリーからスイスへ亡命した女性で、フランス語を”第2の祖国”(la patrie d'election)の言語として覚えた為、とても分かりやすい文章を書く。

実際、私は彼女の”C'est egal”を既に読んでいて、文章はやさしいのは知っていたけれど、”さーっと”は読めなかった経験があった。これは実に奇妙な短編集で、文章は読めるけど、内容は、えっ?さっきはどうだったっけ?えっ?何?の繰り返しばかりで・・・異次元の世界に連れて行かれたような、とにかく不思議な感覚にさせられた。

だから、”さーっと”読めるなど信じられなかったのだが、いざ読み始めてみると、さすが彼女を有名にし、”ヨーロッパの本!”と讃えられただけはある!とにかく、非条理な大人の世界に対して、真っ向から向かい合っていく幼い彼らの言動は、読み手の心を離さない。内容が激しいのに冷淡な書き方で淡々と進めていく書き方も、魅力の一つなのだろう。”さーっと読めた”理由は、簡単な文章だからではなく、やはり想像を超えた内容だからだと納得した。

戦争の最中、幼い双子の男の子が、小さい町はずれに住む祖母の家に預けられた。粗野で汚く、貧しい祖母、水も電気も何も無い家、町に出れば苛められる日々。厳しい環境の中、二人だけで生き延びようと、自らの弱点を見つけてはそれを克服する方法を考え、自らに課題を課し、精神的肉体的に強くし、また勉学にも労働にも励むのだ。

    Nous decidons d'endurcir notre corps pour pouvoir supporter la douleur sans pleurer.(僕達は、泣かずに痛みに耐えられるように、自分達の体を強くする決心をする。)

    Nous ne voulons plus rougir ni trembler, nous voulons nous habituer aux injures, aux mots qui blessent.(僕達は、もう赤面したりびくびくしたりしたくない。僕達は、罵詈雑言や人を傷つけるような言葉に慣れることを望む。)

そんな中、彼らにとっては初めての、非日常の厳しい現実に次々に直面する。彼らはそれらの出来事を、感情を交えずに事実だけを彼らの日記帳”Le Grand Cahier”に書き記していく。

    Les mots qui definissent les sentiments sont tres vagues; il vaut mieux eviter leur emploi et s'en tenir a la description des objets, des etres humains et de soimeme, c'est-a-dire a la description fidele des faits.
(感情を定義する言葉は、非常に曖昧だ。むしろそれらの使用を避け、対象物や人間、自分自身についての描写だけのほうが良い。つまり、事実に忠実な描写のみという事だ。)

このように文章は、1人称複数Nousが主語で、ほとんど現在形で書かれているのが特徴。現在形というのは、過去形と違って妙に生々しい印象を受ける。

アゴタ・クリストフの処女作”Le Grand Cahier”は絶賛され、世界中の33言語に翻訳された。日本でのタイトルは”悪童日記”なのだとか。確かに以前騒がれたことがあるので、名前だけは知っていたけれど、こんな内容だったとは想像だにしなかった。しかし、なんとも題のつけ方が非常に悪いと私は思うのだけれど・・・彼らは”悪童”なの?

タイトルを直訳すると”大きなノート”となる。英語でのタイトルは”The Notebook”となっているけれど、これはあまりにも単純すぎていて、やはりおかしいと思う。なぜなら、”Grand”という形容詞は、”大きい”だけではなく、”ひどい、非常な”とか、”重要な”、”偉大な”、”上等な”、そして強調の意もある。作者は、このGrandという形容詞に、何か意味を込めているはず、と思うのだけれど・・・”ひどい日記”でもあり”貴重な日記”でもあるはず。

日本の題に戻ると、”悪童”ではなくて、他の言葉はなかったのだろうか?彼らは非常に鋭い洞察力をもって、大人の世界を生き延びている。そして弱者に対しては、大人にはできないような細やかな援助や協力をしている。確かに、現在で言う”罪”に属することを犯してさえも行っているのだが・・・。

こう考える自体、きっと私は彼女の術に陥っているのかもしれない・・・。

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