カテゴリー「イタリア Italia」の29件の記事

2011年5月29日 (日)

「イタリア」関連記事一覧

Stmarco

イタリア関連の記事一覧ですが・・・大好きなイタリアには11回も通い、訪れた都市は非常に多いのに、書き終えた記事は少なく、自分でもじれったいです。書きたい事柄は山のようにあるのに、進みません。でも、いつか書きたいことは書くつもり!・・・なのですが。

2011-05-28  フェラーラ③ スキファノイア宮殿の壁画
2010-09-26  山の斜面の中世の街 グッビオGibbio
2010-09-05  ペルージャ Perugia② エトルリアの遺跡
2010-08-28  ペルージャ Perugia① ペルジーノの絵の美しさを再発見
2010-08-22  5月の連休は、ピエロ・デッラ・フランチェスカ

2009-08-27 イタリア最初の世界遺産:ヴァルカモニカの岩絵群
2009-08-22 この夏の旅行

2009-02-12  ボローニャ:エルサレムを模したサント・ステファノ教会群②
2009-02-07  ボローニャ:エルサレムを模したサント・ステファノ教会群①
2009-01-29  ボローニャ:美術品で飾られたサン・ジャコモ・マッジョーレ教会②
2009-01-22  ボローニャ:美術品で飾られたサン・ジャコモ・マッジョーレ教会①
2009-01-16 旧ボローニャ大学 アルキジンナージオ Archiginnasio  
2009-01-11 ボローニャにある聖ドメニコのお墓② サン・ドメニコ教会 ロザリオの礼拝堂、リッピの絵
2008-12-24 ボローニャにある聖ドメニコのお墓① サン・ドメニコ教会 外観、内部、聖ドメニコのお墓

2008-09-27  破壊されたマンテーニャのフレスコ画 パドヴァ・エレミターニ教会
2008-08-19  コレッジョに会えなかった・・・
2008-01-29   マントヴァにあるマンテーニャの壁画「夫婦の間」について②  ”Camera degli Sposi” da Mantegna a Mantova
2008-01-23  マントヴァにあるマンテーニャの壁画「夫婦の間」について①  ”Camera degli Sposi” da Mantegna a Mantova 

2007-09-28  ゲーテを不愉快にさせた街フェラーラ②  エステ城
2007-09-23  キリコに影響を与えた街フェラーラ①  大聖堂
2007-09-09  レンガの塔が美しいポンポーザ大修道院

2007-05-25  知らなかったピエトロ・ペルジーノ② Pietro Perugino che non conoscevo
2007-05-23  知らなかったピエトロ・ペルジーノ① Pietro Perugino che non conoscevo 

2007-03-21 独自の文化を培ったシエナ(6) ドゥッチョと街
2007-03-20 独自の文化を培ったシエナ(5) 洗礼堂
2007-03-15 独自の文化を培ったシエナ(4) ピッコローミニ書架
2007-03-14 独自の文化を培ったシエナ(3) 大聖堂
2007-03-08 独自の文化を培ったシエナ(2) プブリコ宮殿2
2007-03-04 独自の文化を培ったシエナ(1) プブリコ宮殿1

2007-02-21 サン・ジミニャーノ(3) サンタゴスティーノ教会 Una citta dei torrei: San Gimignano(3)
2007-02-17 サン・ジミニャーノ(2) ポポロ宮殿 Una citta dei torri: San Gimignano(2)2007-02-14 サン・ジミニャーノ(1) 参事教会 Una citta dei torri: San Gimignano(1)

2007-02-11 ピサ(4) シノピエ美術館 Un antico paese marittimo: Pisa(4)
2007-02-05 ピサ(3) カンポサント Un antico paese marittimo: Pisa(3)
2007-02-04 ピサ(2) 洗礼堂 Un antico paese marittimo: Pisa(2)
2007-02-03 ピサ(1) 大聖堂 Un antico paese marittimo: Pisa(1)

2006-12-24  ヴェローナのDuomo il Duomo di Verona
2006-12-22 ヴィチェンツァにあるオリンピコ劇場 Teatro Olimpico a Vicenza
2006-10-05 パヴィアの美しい僧院 Certosa di PAVIA

2006-09-13 マンテーニャが仕えていた街 マントヴァ Mantova où Mantengna s'est devoué à la peinture

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2011年5月28日 (土)

フェラーラ③ スキファノイア宮殿の壁画

イタリアは大好きな国。ずーっと気になっていたフェラーラの続きを久しぶりに。今までに2度、キリコに影響を与えた街フェラーラ と ゲーテを不快にさせた街フェラーラ という題で、大聖堂とエステンセ城について書きましたが、これは、2005年9月上旬、2週間ほど息子と二人で車で廻った後に書いたもの。今回は、2008年の夏、主人と2人で車で廻った時に訪問した、《スキファノイア宮殿》や《ロメイの館》について、少し書いてみます。

Ferrara_map

上の地図(クリックすると拡大します)で、左上が鉄道のフェラーラ駅。スキファノイア宮殿は、街の中心にある大聖堂をはさんで、ちょうど反対側、つまり右下の城壁に近い所にあります。私達は、大聖堂近くから、タクシーに乗りました。フェラーラは思った以上に広いので、これお勧めです。

フェラーラの街は、マントヴァに比べて、なんとなく近代的だなあと感じたのですが、こうやって地図を眺めると、その理由がわかる気がします。ほら、道がまっすぐ延びているでしょう?中世の街では、メインの道でも緩やかにカーブしているのが普通なのですが、ここでは、直線です。ほんと近代的ですね。こういうところからも、画家キリコはインスピレーションを感じたんでしょうか。

下の画像(以前にも同じ画像をアップしましたが)は、エステ城の塔から。結構大変でしたよ、登るのは。最後の方は、鋼鉄製の足元が網目状態になっているような階段を登りました。確か、この先にディアマンテ宮殿があります。道が直線でしょう?

Fereste3

話を戻して、スキファノイア宮殿は、下の写真のように、道路に沿って細長く建っており、何の変哲もない建物です。これがほんとうに宮殿なのかと疑われそうです。宮下先生の本によると、もともとは1385年に、エステ家のアルベルト世が娯楽場として建設した建物を、ボルソ公が、宮廷建築家ピエトロ・ベンヴェヌーティ・オルディニに命じて、大改築したのもだそうです。

Schiext

Schi1_fanoia 入口内部もシンプルで小さく、おばさんが一人いるだけなので、不安を感じながらもとにかく入ることに。左の簡単なチケットからわかるように、あまり力が入っているようにも思えませんし、しかも今見ると、ラピダリオ美術館もこの5ユーロのチケットで入れるようです。あの時、もう少ししっかり見るべきだったなあ・・・。

もう記憶も薄れているのですが、一階は何かの展示があり、変な中2階を歩き、(つまり、一階の上の方に臨時の廊下が続いていた。修復中だったのだろうか?)そしてまた少し階段を上がって、メインの大広間へ。写真は禁止でしたので、購入した本から。

Schifa1

ひろーい部屋は、壁画で囲まれていました。思わず、うわーっと声が出そうに。けれども認識できるのは、この画像の正面(ここらは入ってくる)と左側の面のみ。宮下先生の本によると、《月歴の間》と呼ばれるこの広間は、18世紀に漆喰で上塗りされ、19世紀になって再発見されたのだそうです。18世紀というと、フランスは革命の後、そしてイギリスは産業革命の真っただ中で、古いものは価値がない、とみなされていた時代かもしれません。

Schi_mar3 絵の構図は、壁面を月毎に縦割りにし、そのひと月を3段に区切り、上段は、各月に相当する神々の勝利の場面、真ん中の段は、黄道12宮の寓意像、下段は、ボルソ公の豪華な宮廷生活の場面が描かれています。

右の画像は、3月。上の部屋の画像では、正面右側にある壁画です。上段は、知性の女神ミネルヴァの勝利、中段は雄羊。画像の質が悪いので、その豪華さが感じられないのが残念です。

下段は下の画像の方がわかりやすいでしょう。右側に宮殿、ボルソ公と思われる人物を、人々が取り囲んでいます。中心から左にかけて、立派な馬に乗った、見目麗しき騎士達がずらーと並んでいます。足元には犬もいます。当時の宮廷には必須アイテムなのです。左上には、働いている人たちが描かれています。

Schi_marzo

4月のは、絵はがきがあったので買ってきました。修復後の絵なので色が綺麗です。4月は、軍神マルスの月、そして牡牛座です。しかし、全体の絵葉書はなくて、部分的です。これは、下段の右方向一部分。マンドヴァのマンテーニャの”夫婦の間”に描かれている人物に似ています。

Aprile1

これは、上段の右側一部分。上部は下段に比べて、保存が格段に良いようです。優雅な世界ですね。この3月と4月は、フランチェスコ・デル・コッサによるフレスコ画だそうです。

Aprile3_2

この4月の場面は、美しく修復されましたが、残念ながら残っている絵でも、下段は一部が欠けていたり、かなり色が剥げていて、時代の流れ、そして痛々しくも感じました。しかし、場面の取り方、人物の配置の仕方など、全体の構成は非常に素晴らしい。四面とも見ることが出来た時代は、さぞかし華やかであったことでしょう。

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2010年9月26日 (日)

山の斜面の中世の街 グッビオ Gubbio

Gubbio1757

この地図は、1757年のグッビオGubbio。地理的に今と異なるのは、城壁の外に家が増えた事ぐらいなのかもしれない。ミシュランの説明によると、自由都市としてドイツ皇帝党を支持し、11~12世紀に非常な発展を遂げた街。しかしその後15世紀に、ウルビーノのモンテフェルトロ家、さらにデラ・ロヴェーレ家に支配され、1624年には、ローマ教皇の支配下に置かれたという。

この街の特産は、中世以来陶器製品。16世紀の初め、マストロ・ジョルジョという人物が、金属的な光沢をもつ「赤のうわ薬」を発明し、それが人気になったという。(Ducale宮殿でこの焼き物を見ることになる。)古い家が立ち並ぶ中世の雰囲気を残した街グッビオ Gubbio。

Paysage3 朝8時にペルージャを出発したのに、対向車も追い越す車もなく、のどかな山道をのんびりと走って、9時にはもうグッビオに着いてしまった。まだ早いためか、アクセスしやすい駐車場(S. Francesco教会近く)に車を止めることができた。

上方を見上げると、家々の間から執政官宮殿(Palazzo dei Consoli)である白い建物が見えます。えっ!あんな高いところまで歩いて登るの?いやだなあ、と思いつつ、駐車場近くの小さな土産物店でグッビオの本を買ったついでにおばさんに尋ねた。”上に行くにはどうすればいいんですか?”、”エレベーターがあるわよ”、”えっ?それどこにあるの?”、”この道まっすぐ”。”ありがとう!”知らなければ、あの高いところまで坂道をハーハーと言いながら歩くところだった。

Consoli6 メインのRepubblica通りを直進すると、突き当たり辺りにエレベータのマークがあり、奥深くまでくりぬいたようなトンネルの奥に、2機のエレベーターがあった。降りたところは、グッビオの写真を探すと必ず出てくる光景が、目の前に広がっていた。(右の写真)ああ、これか!

ここは、執政官宮殿前の広場。その日はおりしも5月1日、イタリアでは労働者はお休みで、この街の見学するべき建物は見られないと思っていた。人出もないし、もう駄目と思いながら、中央の素敵な階段を登って入り口傍の案内板をみると、紙が張っていあり、開館時間は10時と書いているのです。うわっ!見られるんだ!と大喜び。

Duomo6 時間があるので、更に高い所にある大聖堂へ行くことにした。今度こそは、坂道を歩かなければと覚悟したのですが、なんとまたもやエレベーターの文字が!ラッキー!でも下の写真のように、エレベータの入り口はお店と区別しにくいので、頭上の看板”ASCENSORI(エレベーター)”という単語を気をつけてみてください。

Ascensore

エレベターの到着場所は、大聖堂の裏側でした。左上の写真は、大聖堂を東側から撮ったもの。周りに誰もいないし、ちょっと荒れた感じ・・・でも、道なりに歩くと、大聖堂付属博物館の入り口にあたり、さらに上に歩くと大聖堂に入れます。

Duomo5 Duomo2

Duomo4 Duomo3

13世紀にゴシック形式で建てられたというDuomo内部のフレスコ画は、新しいようにみえる。右側にバロックの霊廟もあるのだけれど、暗くてその美しさが十分に把握できない。後で本を見ると、グッビオでフレスコ画を見るのなら、城壁の外東側にあるサン・タゴスティーノを見るべきだったみたい・・・残念。

Ducale4 大聖堂付属博物館(実際の名前は、教区博物館 Museo Diocesano)は、ペルージャの大聖堂付属博物館のチケット(訪問していたのに、書くのを忘れていました。3.5ユーロ。)を提出して、1.5ユーロの割引がききました。一か所でチケットを購入すると、アッシジ、スポレート、テルニなど近くの街のいくつかマイナーな博物館が連携し合って、割引システムが出来ているようです。このグッビオの大聖堂博物館には、当然左のような絵画や彫刻をはじめとする宗教芸術ばかりですが、地下に15世紀の《司教座聖堂参事会員の大樽》という、年代物の見上げるような大きなワイン樽が展示されていて、ちょっと驚き。当時は大勢で飲んでいたんでしょうか?

Ducale2 Ducale宮殿(Palazzo Ducale di Gubbio 5ユーロ 8:30~19:30)の入り口(右の写真)は、なんと大聖堂の目の前。二つの重要な建物の間隔が驚くほど狭いので、両方とも全体像が撮れません。おまけに、あまりにも質素な入り口にちょっと拍子抜け(右)。

Ducale3 でも、右の写真の左下に見える看板を見て、驚きと嬉しさでいっぱいに!拡大したのが左でして、「グッビオ:書斎の復活」と書かれています。

そう!東京にお住まいでイタリア美術のお好きな方は、ご覧になったと思いますが、2008年4月、日本のイタリア文化会館で、この再現された《フェデリーコの小書斎》の展示会があったのです。

ウルビーノのドゥカーレ宮殿に着想を得て1476年から建設されたこの宮殿は、ウルビーノと同じようにグッビオにも寄木細工の小書斎が作られたのです。しかし、第二次大戦中の1939年、財政難からアメリカのメトロポリタン美術館に売ってしまったのです。この時代、実に多くのヨーロッパの貴重な芸術品が、アメリカに買われて行きました。芸術作品のアメリカ流出は、日本だけではなかったのです。

もはや買い戻すことができないグッビオは、地元の職人によってこの芸術的作品の複製を試み、5年の歳月を費やして完成されたのです。この小書斎がグッビオに設置される前に、イタリアの高度な技術紹介として世界中を廻り、おかげで日本で見ることが出来たわけです。そして今、本来の場所で、再び見ることのできるとは、なんとうれしいことでしょう!!

Studiolo1

Studiolo2 これは、イタリア文化会館に展示されていた時撮ったものです。これらすべて、異なる色の板によって作られています。例えば、右の写真で、手前に出ていそうな机も実際は平面で、机の足の影も、戸棚の模様の格子模様もきれいに色の異なる木がはめ込まれています。近くで見ても、騙されてしまう程巧妙に出来ていました。

さて、この宮殿のもう一つの見所は、知らなければ通り過ぎてしまうのですが、大広間に一部だけ床が照らされている箇所があるのです。よく見ると、床が赤っぽい金属的な光沢を発しています。そう!、これこそ先に述べた、《赤のうわ薬》の陶器なのです。虹色に光るような魅惑的な色でした。他の街が、その技術を盗もうとしたのもわかります。

この建物の入り口の話に戻りますが、この宮殿の荒い未完成のような外壁を見ると、この街のメインは、はやり下にある執政官宮殿かもしれませんね。

Consoli5 またエレベーターを使って下へ。シニョリーア広場は朝よりかなり人が集まっていました。執政官宮殿(Palazzo dei Consoli 5ユーロ、10:00~13:30、14:30~18:00)の入り口階段は、このように素敵です。白い外壁といい、ドゥカーレとは段違いですね。

入ると、それはそれは広い空間になっていました。ほんと高い!広い!左手奥から急な階段を、せっせと2階分くらい登り、ようやく展示室に入ることになります。実は私たちはこの場所に、グッビオで最も貴重なものがある事を知りませんでした。

Tavole1_eugubine Tavole2_eugubine

展示室に入ってすぐ左の部屋にあるこの石板(絵葉書から)の前には、人だかりが出来ていました。私たちは何も分からず、ふう~んとちらって見てから、そこを去ろうとした時、中年の男の人が声をかけてくれました。”これは、ウンブリア語なんですよ。ここだけの特別な言語です。裏側はラテン語が彫られているんですよ。” ”ええっ?ウンブリア語って、あったんですか?” ”ええ、珍しいでしょ?右から左に読むんです。” ”うわっ!アラビア語みたいですね。”。もうほんとに、このにこやかな中年男性に感謝でした。

で、それから改めてしげしげと眺めたわけです。購入した本を読みますと、これは、《Le TAVOLE EUGUBINE(グッビオの板)》と呼ばれている、7枚のブロンズ製の四角い板状のもので、1444年、グッビオの南東にあるローマ劇場跡から見つかったのだそうです。研究の結果、古代文明の中でも非常に貴重なもので、ローマ文明にもギリシャ文明にも属さない、むしろオリエントに近い文字であることが分かったのだそうです。4つの母音と14の子音からなっており、、文字は、ロシア語にように、”E”も”K””P””S”も反対向きになっています。世界には、きっとこのように隠れた文明があるのでしょうね。でも、文字が残っているとは、グッビオの人々にとっては、貴重な宝物です。

Consoli1 F_signorelli

左は展示会場内部、右は、シニョレッリ(Francesco Signorelli)《無原罪の御宿り Immacolata Concezione》。宗教絵画ばかり見た後のテラスからの眺めは、最高!左の写真では、山側に大聖堂とドゥカーレ宮殿が少し見えています。右のでは、緑の向こうにサン・フランチェスコ教会、右遠くにローマ劇場跡が見えます。(写真はすべて、クリックすると拡大します。)

Consoli4 Paysage1

しばらくすると、下のシニョリーア広場に人が集まってきました。さらに大きな鐘が鳴り響いていたので外にでましたら、なんとみんな上を見上げています。注意して見ると、その先には、なんと赤い服を着た数人の人が、思いっきり体重をかけて紐を引っ張り、大きな鐘を鳴らしていたのです。見ていて壮観でした。右の写真は、みんなが見上げているところ。その一番高い所に鐘があり、それが左の写真です。

Consoli8 Consoli7

Via2 昼ごろになると、人通りも増えてきました。結構観光客が多かったですよ。歩いて降りれば、それも楽しかったのかもしれませんが、ウルビーノへ早く行きたいので、またエレベーターで降りてしまいました。

次は、駐車場近くのサン・フランチェスコ教会  Chiesa di San Francesco。1240年完成のこの建物、外観はゴシック、でも内部の天井はアーチ型。後陣の天井が木組みで出来ているのを見ると、かなり教会内部の改装がなされた模様。壁をこんなに白くしなければ、もう少し味のある教会になっていたでしょうに・・・

Sfrancesco1 Sfran1cesco

Sfran3cesco Sfran5cesco

左右のフレスコ画も描き方が異なるので、作者は違うのではないかと思われます。左の後陣は、地方の画家オッタヴィアーノ・ネルリ作。

Sfran6cesco Sfran4droit

Mercato このサン・フランチェスコ教会の前に広がる広場沿いに、気になる大きな建物がありました。ガイド本によると、旧工場跡で、外側の開廊は伝統的な市場だそうです。

この街で有名な催しものは、5月15日の《チェーリの競走 Festa dei Ceri》という、壮観な伝統的な祭りだそうです。いくつかの同業者のメンバーが伝統的な衣装をまとい、4メートルの木の棒(写真の黒くて長いもの)の上に諸聖人が乗っている「チェーリ」をかついで、標高820メートルにあるサン・トゥバルド・バジリカ聖堂 Basilica di Sant'Ubaldo まで駆け登るという、厳しい競争だそうです。ものすごい熱狂ぶりが伝わってきますね。(下の画像は、現地で購入した本から)

Ceri2 Ceri1

ウンブリア語の存在を知り、《赤のうわ薬》の魅惑的な色の陶器を見、満足して昼過ぎにグッビオを後にし、ウルビーノへ向かいました。


大きな地図で見る

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2010年9月 5日 (日)

ペルージャ② エトルリア時代の遺跡

9月に入ったのに、こんなに暑い日が続くとは・・・連日35度超え。それなのに、なぜだか私は風邪をひいてしまいました。鼻水、喉の腫れ、咳や痰などがつらいです・・・最悪。

Cathedral1 ペルージャ Perugia②

昼食は、多くの若者に交じって大聖堂の階段に腰かけ、近くのピザ屋さんで買ったパニーニを食べて終わりました。空も空気もきれいだし、景色もいい、時間があったら、ボーっと座っててもいいなあと思ったほど。ペルージャを、1日で見ることは不可能と分かっていました。それでも出来る限り見てみたい!ということで、休みもそこそこに、私たちはまた歩き始めました。

Escalier2 次に目指すは、北にあるエトルリア門。地図を見るとそんなに遠くなく、一本道で簡単に行けそうなのですが・・・これが平面地図の限界。ひどく急な下り坂なのです。また駐車場に戻る為に登らなければならないことを考えると、下りたくはないのですが、仕方がありません。慣れているはず現地の方も、一見平気な顔をして登っているように見えて、けっこうふうふう言っていました。

Porta2_etrucsa Porta1_etrusca

これがエトルリア門Arco Etrusco。この門は、下側が2300年前のもので、当時のオリジナルな姿を残しているのだそうです。門の下を通ったのですが、幅というか塀の厚さは2メートルぐらい(もっとあったか?)あり、そのでこぼこした石から、荒々しい力強さを感じました。

Escalier1 暑い!休みたい!でも時間がない!ですぐに、サン・セヴェーロ教会 Chiesa di S. Severo へ向かうことに。しかし、地図はあるものの、坂道がうねうねしていてよくわからないのです。来た道を引き返そうとすると、左手方向に長く続く幅の広いなだらかな階段が見えました。そこに立派な紳士が降りてきます。思わず尋ねました。”この階段を登れば、サン・セヴェーレ教会に行けますか?”すると”Si”という返事。1年以上使っていないイタリア語も、旅行会話ぐらいなら大丈夫そう。

その道はなだらかそうに見えるのに、はやりきつかったです。でも気持ちいい、しかもとても素晴らしい景色を提供してくれたのです。これは、ペルージャの北東の景色。

Paysage1

Ssevero やっと着いた小さな建物。ここでの目的はだたひとつ、ペルージャに残る唯一のラファエロのフレスコ画を見ること、しかもそれはペルジーノとの合作です。正面右側に開いている小さな入り口を入ると、すぐ左に小さな机を前にしたおばさんが待っていました。チケットを購入する(金額はわすれた)と、”はい、どうぞ”とすぐ傍にある長くて重そうなカーテンの方向を指すのです。

えっ?ここに入るの?と半信半疑ではいると、そこは小さな部屋(正面の扉の向こう側にあたります。)で、右手側の壁に下図のフレスコ画が描かれていて、その向かい側には一列に椅子が並んでいたのです。てっきり教会の広い空間で見られるのかと思っていましたら、こんな狭い場所での鑑賞とは・・・。

Ssevero_freschi

ラファエロが描いたのは、上半分だけ、1505年だそうです。当時ラファエロはフィレツェに住んでいたらしいのですが、ペルージャからの絵の依頼が度々あり、戻って描いていたそうです。もうすでに、師匠ペルジーノそっくりの絵を描くのは卒業していたそうで、そう考えると、本来この壁画は合作ではなく、ラファエロだけに依頼されたものかもしれません。残りの下半分を師匠ペルジーノ(1448年ごろー1523)が描いたのは、ラファエロが亡くなった次の年である1521年だったそうです。つまり、もうラファエロによる完成は不可能が分かった時点で、年老いた師匠が最後の力を振り絞って完成させたのかもしれませんね。

サン・セヴェーロ教会で手渡されたチケットは、大聖堂近くにある、エトルリアの井戸見学とペアになっていました。なだらかな階段を上った後、サン・セヴェーロ教会へ行くために少し下り、今度はまた登りです。ほんとに坂ばかりです。井戸の入り口は少し奥まった場所にありました。注意しないと見つかりません。

Pozzo2 Pozzo1

凄い!凄い!狭いトンネルの階段をどんどん下っていきます。下の方の壁は、岩でした。全く異空間に入っていくよう。上の右の写真は、小さな小窓から井戸をのぞきこんだもの。壁は苔むしていて、時代を感じさせます。横に通っているのは、見学用の橋で、ここまで行くことが出来ます。どこからか透き通った水がどんどん流れ込んでいました。これが、ローマ時代以前のエトルリア時代から残っているとは!

イタリア広場まで戻り、そこから歩いて国立ウンブリア考古学博物館へ行こうとしたところ、たまたま尋ねた若い女性が車で行くことを勧めるので、彼女からしっかり道筋を聞いてから駐車場に戻った。確かに、彼女から聞いていなければ、とてもまっすぐには行けなかったでしょう。古い街の、しかも坂道だらけの街は、難しい。

Spietro_ingresso Spietro2

まずは、一番遠くにあるサン・ピエトロ教会 Basilica di S. Pietro へ。イタリア広場から良く見えたこの鐘楼は、1464年に建設されたもの。教会は、10世紀建てられ、16世紀にルネサンス風に修復されたそうです。内部は全面フレスコ画や絵画で覆われていて見事です。ただ撮影禁止だったのが、残念。画像は、冊子から。絵の作者は、ペルジーノ以外にヴェネローゼ、グイード・レーニ、ヴァザーリの絵もあるそうです。どのようだったのか、もう記憶にありませんが・・・

Spietro3 Spietro1

ただ、教会入り口右側に描かれていたフレスコ画は忘れられません。だって、マリア様の頭が3つあるんですもの・・・日本の阿修羅像を思い起こさせます。おまけにこの絵、正面左側の聖女は、なんと腕組みをしています。こんな聖人、それとも天使?いままで見た事あったかな?

次は、国立ウンブリア考古学博物館(4ユーロ 2,010年現在)。もうかなり疲れていました。が、入り口を入ってすぐ目の前に広がる静かな美しさに、うわ!いい!この修道院のような建物!それもそのはず、ここは、隣にあるサン・ドメニコ教会の修道院の建物を使用しているのです。

Archeo1

人がいないのが、いいのか悪いのか、とにかく外界とは別な時間が流れているようでした。一階の回廊も2階の回廊もエトルリアやローマ時代の墓石が展示されています。

Archeo2 Archeo4

そして、2階には、一般的な石器時代からエトルリア、ローマ時代までの出土物が展示されており、奥の方にある特別な1部屋の中央には、このペルージャで一番貴重な《ペルージャの石碑 Cippo Perugino》が、ライトに照らされて展示されていました。

Cippo_perugino Cippo_exp

右の写真は、その部屋にかけられていた説明です。エトルリア文字はまだ解明されておらず、赤い個所は、個人名、紫は建物とかお墓らしいということしか、分かっていないそうです。この直方体の石、高さは1メートルぐらいだったかな。

ひと気のない広い博物館は、ちょっと怖くもありました。目的のものは見られたし、出口に向かおうとして回廊を歩いていましたら、ふと開いているドアを見つけました。おじさんが一人、ポツンと大きな机を前に座っていました。ちょっと不機嫌そうな彼、何が展示されているのか分からないけれど、「入ってもいいいですか?」と尋ねると、「Si, prego!」と少し笑顔。

そこには、下に向かう階段しかなかったので、恐る恐る下っていくと・・・うわー!ガラスに囲まれた中は、エトルリアのお墓の再現がされていたのです。

Archeo5

Archeo7 これは、《ペルージャのカイ・クツのお墓 La Tomba dei Cai Cutu di Perugia》と呼ばれ、1983年、ペルージャのモンテルーチェという場所で、偶然手つかずのままのお墓が発見されたのだそうです。そして、発見された当時のまま、ここの移し替えたのだそうです。これは、エトルリアというより、ヘレニズム文化の影響を受けているそうです。(私には、その違いが分かりませんが)

右の図は、石碑の配置図。興奮状態でここの見学を楽しんだ後、上に戻って感激のあまりあのおじさんに、”とっても良かったです!凄いですね。”などと声を掛けると、あんなにとっつきにくそうだったおじさんが、にこにこして”凄いだろう”と言いながら、机の下から大きくて立派なこのパンフレットを出してくれたのです。何も言わずに出れば、このパンフレットも手に入らなかったでしょう。私もうれしかったので、地図だけアップしておきます。

最後に訪れたサン・ドメニコ教会 Chiesa di S. Domenicoは、考古学博物館の隣にあります。下の写真の左手奥に見える小さな門が考古学博物館入り口、手前のりっぱな階段の建物が、教会です。中は、このように信じられないほど殺風景でした。

Archeo6 Sdomenico1

元は13世紀の建物なのですが、17世紀に修復され、このように味気ない教会になったのだそうです。残念ですね。

後半の訪問個所のリストアップ
 ・エトルリア門(力強い、帰り、坂道を登るのが厳しかった・・・)
 ・セン・セヴェーロ教会(若いラファエロがペルージャに残した唯一の壁画)
 ・エトルリア時代の井戸(苔むした、深さ37メートルの暗い空間!面白かった!)
 ・サン・ピエトロ教会(少し離れている立派な修道院)
 ・国立ウンブリア考古学博物館(ペルージャの石碑Cippo Perugino エトルリア文字の碑文、エトルリア時代の墓の再現が見られる)
 ・サン・ドメニコ教会(考古学博物館のそば)

泊まったホテルは、”Gio' Wine & Jazz Area Hotel Rerugia”(4つ星)。メインの入り口は車がいっぱいで、きれいに正装した人々が次々に降りていました。何かパーティーがあったのでしょうか?このホテルはその名の通り、WineコーナーとJazzコーナーとに分かれていて、Jazzコーナーでは時々コンサートが行われているようです。

Hotel_jazz Hotel_wine

とても興味深かったのは、地下の渡り廊下の床が白と黒のピアノのけん盤模様になっていたこと。片側にはゆったりとしたソファーが並んでいて、向かい側の壁には、数台のテレビが上部に設置され、過去のジャズコンサートを放映されていました。

もうひとつ面白かったのは、ネット用のパソコンが、ワイン樽の上に置かれていた事。またワイン樽の展示やワインコーナーもあり、徹底的にワインとジャズに凝ったホテルでした。

 

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2010年8月28日 (土)

ペルージャ Perugia① ペルジーノの絵の美しさを再発見

5月連休の旅行を思い出しながら、まとめてみたいと思います。

1日目: 18時ごろローマ・フィウミティーノ空港に到着。即、地上2階にある駐車場方面への渡り廊下を通り、予約していたレンタカー会社AVISへ。手続きもほぼ終わった頃、突然”車のナビは、要りますか?1日6ユーロです”と言われました。今までイタリアでは、ミラノで何回かレンタカーを借りたけれど、そんなこと言われたこともないので、びっくり。へえ、イタリアにも車のナビがあるんだと驚いたのと同時に、必要ないと思ったものの、ただ興味だけで借りることにしました。で、手渡されたのが、これ。日本で使われているのとはあまりにもかけ離れていたので、ええっ?これがナビ???大きさは、iPhoneより少し大きめの手のひらサイズ。

Car_navi1 Car_navi2

茶色のラインが進むべき道。黄色は間違った道。曲がるときは、緑色の矢印が出て、それ以外の情報は表示されません。初め見た時は、あまりのシンプルさに笑ってしまいましたが、後に、それがものすごい力を発揮することになり、最後には、このナビに感謝感謝でした。ただ保安上、車から離れるときは、付けっぱなしでは盗難の危険性がある為これを隠さなければならず、いつも電源を抜いて、鞄の中に押し込んでいました。

Best_western さて、出発!といっても、この日は、ローマ市街より1時間ほど北に位置する高速道路沿いのホテルBest Western Park Hotel Rome(分かりにくい場所にあった・・・4星だけれども、お勧めしません。)に宿泊するだけ。(ホテルは基本的に、駐車場付きを確認して予約しています。イタリアの街は古いので、街中ではほとんど見つからず、郊外ばかりとなりました。)

Ancien_paysage

2日目: 7時半出発。10時過ぎにペルージャのバスターミナル(パルティジャーニ広場)近くの大駐車場に着く。そこから、トンネルの中に設置されている5段ものエスカレーターを乗り継いで、ペルジャ中心地へ。もうわくわくです。

Escalator 着いた所は、想像もしていなかった広い空間でした。目の前には彫刻、廻りは、教会のクリプトのように、レンガのアーチに囲まれ、複数の部屋もあるような場所。私ももう、それだけで感激!市内を見る前から、”私、ペルージャ好き!”と思ってしまいました。右の写真がエスカレーター到着場所ですが、誰がこのような光景を想像できたでしょうか!歴史のある場所は、違いますねえ!

Rocca_paolina中は天井が高く、アーチがいくつもあり、フェスティバルの用意をしていました。実際、この場所は、ロッカ・パオリーナRocca Paolinaという、1540年、教皇パウルス3世の命により建設された城塞の地下にあたり、16世紀の邸宅の跡なのだそうす。見つかったのは、40年前ほどだとか。地図で言うと、Palazzo del Governo(県庁?)の地下にあたります。

そこからすぐに、中心である11月4日広場に出る道に出たかったのですが、その地下空間では、日本では当然あるはずの案内板がどこにもなく、しばらくうろうろ(実は、こういう”うろうろ”状態が、旅行の醍醐味だと私は確信しているのですが・・・皆さんはどう思われますか?)した後、外国人のグループの後に続いて出てみたら、なんだかわからない門へ出てしまったのです。でも、これが大正解!

Porta_marzia この門の名前は、《Porta Marzia》(マルツィア門:戦いの神マルスの門の意)。ペルージャはローマ人が征服するまでは、エトルリア人の街でした。小川熙氏の本によりますと、この街を囲んでいる城壁も前3世紀に彼らが建設し、このマツツイア門は当時、その中でも南側にありローマと直結していたため、最も重要な城門だったのだそうです。

この門では、エトルリア時代のは上半分だけで、正面の水平の石に、《AUGUSTA PERUSIA》と彫られていて、オクタヴィアヌス、つまり後のアウグストゥスによって支配されていたことが明確にされているとのこと。

確かに、上部だけを映した別の写真を拡大してみると、4つの黒い戦士の胸像と右端の馬の頭の彫刻の下、そして、アーチ上部の横石には、中央の黒い像を挟んで、左側に《AVGVSTA》、右側に《PERVSIA》と書かれているのが読めました。(石碑などのラテン語では、UはVと書かれます。)さすがペルージャ!すべてが古いです!

それから、また建物の中に入り、別の出口へ出て、ようやくメインの道、コルソ・ヴァンヌッチ通り Corso Vannucci (下の写真の広い道)を見つけ、イタリア広場から大聖堂のある方向へ向かうことができました。

Corso_vannucci

この写真で、左側の建物がプリオリ宮殿 Palazzo dei Priori、つまり国立ウンブリア美術館(詳細はまた別途)。写真左側に見える、教会のようなタンパンのある入口が美術館の入り口です。正面に見える荒い四角い建物が、サン・ロレンツォ大聖堂 Cattedrale di S. Lorenzo、その手前に見えにくいですが、ペルージャの象徴といわれる大噴水 Fontana Maggioreです。下の写真がまさに、ペルージャの中心である11月4日広場。大聖堂や宮殿の階段のあちらこちには、多くの学生や旅行者が座り込んで、ダベリングしていました。

Piazza_4_novembre

この大噴水は、この大聖堂ができる100年以上前、1278年に完成しています。よく見ると彫刻や浮彫が華やかに礼儀良く並んでいますが、これがあのピーサ大聖堂洗礼堂の見事な説経台を作成した、ニコーラ・ピサーノと息子ジョヴァンニ・ピサーノの作品なのです。

Fontana一番下の段は、教会の外側でよく見かけられる《月歴図》の浮彫で、季節の労働が星座のしるしと共に彫られていたり、なんとイソップ物語のようなのもありました。その上の段は下とは異なり、角ごとに聖人の像が並んでいます。

右の写真で、左から3人目の座っている女性は、ペルージャの擬人像で、手には《豊饒の角》を抱えて、まっすぐ南を見つめています。南には、ローマがあります。ローマに負けないような豊饒を願っていたのでしょうか?ふと、”今でもペルージャの人は、ローマを嫌っている”という内容の文章を読んだのを思い出しました。

Entrada_dei_notari これ(左の写真)は、プリオリ宮殿を大聖堂側から撮ったものですが、こちら側にあるすそ広がりの階段を上った先にある扉を入ると、そこが公証人の間 Sala dei Notariです。

連続のアーチは美しいリズムを作っていますし、一面の壁画には圧倒されます。旧約、新約聖書の内容のほか、1499年までの歴代執政長官の紋章が描かれているのだそうです。見学は自由、無料です。

Notaire

さて、いよいよ入れる!と喜んで大聖堂に入ったのですが、なんとなくピンとこない感じ・・・天井画も美しく描かれているのに、なぜか印象が薄いのです。14世紀後半、ロマネスクの教会を壊してこのゴシック様式に改築したのだそうで、だからなのか、目立つ特徴が見つからないからかもしれません。

ただ面白かったのは、”大理石の柱から、血が流れ出している”、ということで、その部分を透明のプラスチックで覆っている柱(右端の柱)があったこと。この柱の反対側は、大理石の化粧板がはずされていて、ぶつぶつとした灰色のもの(石なのか?)の間から、どろっと濃い赤いものが垂れていました。写真も撮ったのですが、あまり気持ちいいものではないので、アップしないことにします。

Sant_lorenzo

Anello1di_maria ここで特記すべきこことは、ここには、《聖母マリアの結婚指輪》と言わる聖遺物が展示されていること。正面に向かって左後ろの角に、サンタネッロ礼拝堂(右の写真)という鉄格子に囲まれた区画があります。その中、下方にある赤い布の上に、”石”でできていると思われる指輪がぶら下がっていました。

小川氏の本によりますと、伝説によれば、1472年に一人のドイツ人の僧が、西方20キロほど離れたキュージChiusi の町から盗み出してマインツに持ち帰ろうとしたところ、ペルージャで発見され取り上げられたのだとか。キュージは返還を迫ったが、ペルージャは当然拒否。鉄の囲いは、1498年からなされているという。ペルージャの宝なのですね。

Raphael_mariage_de_la_vierge 実は、この指輪の存在によって、分かったことがありました。話は飛びますが、ミラノのブレラ美術館にラファエロの《聖女の結婚》1504年作(左図)があります。はじめてこれを見たとき、なんとなく違和感を感じました。マリアの夫であるヨセフは、確か、ものすごい年寄りなので、このようなシーンはあり得ないし、画家としての想像もむずかしいのではないかと。

でも、ラファエロはここペルージャで、この教会の指輪の存在を知っていた故に、こういう絵が成り立ったのだと納得しました。さらに、ヴァティカン・システィーナ礼拝堂のペルジーノ作《聖ペトロへの鍵の授与》を見ると、その構造があまりにも似ているので、彼がペルジーノを師匠としていたこともうなづけます。また、宮下氏の本によりますと、この絵とそっくりなペルジーノの絵が、フランスのカーンにあるそうです。初期のラファエロは、当時の時代の寵児であったペルジーノの影響も大きかったのですね。

ちなみに、背後にあるヴラマンテを想像させる建物の存在は、後ほどウルビーノで知ることになりました。なんだか、今回の旅行では、予想していなかった収穫があったような気がします。

Pergino3_cambioところで、このペルージャで一番広いメイン道路でもあるCorso Vannucci通り、この名前は、なんと画家ペルジーノの本名 Pietro Vannucci からきているのです。如何にこの街がペルジーノを誇りに思っているか、よく分かります。ウンブリア美術館では、彼特別の部屋もありましたし、美術館入口より2つ大聖堂寄りの小さなアーチを入ると、両替商会館 Il Collegio del Cambio (左図)がありまして、そこでは、精巧な寄木細工と共に、一面のペルジーノの美しいフレスコ画を堪能できます。

Pergino2_cambio

これは、《剛毅と克己》。一見、題名は強そうなのですが、実際の絵は、甲冑に身を固めている兵士達は、身体は曲線を描きなまめかしく、目はうつろで色っぽいのです。聖人たちも身体や足がねじられていて、なまめかしく表現されています。でも、この場でこれを見ると、色の鮮やかさやエレガントさが冴え、すべて受け入れてしまいます。

 Pergino1_cambio

これは、《分別と正義の象徴》。左側は左からイザヤ、モーゼ、ダニエル、ダビッド、エレミア、ソロモンなどの預言者達、右側にはシビッレの巫女たちだそうです。全員が同じ高さというのは気になりましたが、バランスを考えてのことなのでしょう。巫女たちのエレガントさは見事です。預言者たちには、もっと威厳があってもいいような気もしますが、この部屋全体が甘い雰囲気なので、それさえも美しく見えます。

以前、”知らなかったペルジーノ①、②”と題して、ペルジーノの事を調べた事がありましたが、その時には知らなかった彼のフレスコ画を、今回たくさん見ることが出来ました。その中でも、これらの絵の質は上位に位置すると思います。天井には、グロテスク模様の中に星座ごとの絵が描かれ、下半分は細かな寄木細工が施されていて、その色の濃さが、さらにペルジーノの鮮やかな美しい色を強調しているように思われました。

Marcanziaウンブリア美術館入口より左側、つまり大聖堂から離れる方向にある2つ目の扉にはいると、そこは、商業会館Collegio della Mercanziaです。全壁面、全天井すべて寄木細工で覆われている部屋は圧巻でした。しかし、見学はこの一部屋だけです。フラッシュなしで撮影可能。上の両替商会館合わせて5.5ユーロ。

噴水の廻りで見学したものをまとめておきます。

 ・国立ウンブリア美術館
 ・大噴水Fontana Maggiore(ピサーノ親子のレリーフ)
 ・サン・ロレンツオ大聖堂:聖遺物《聖母マリアの結婚指輪》(サンタネッロ礼拝堂)
 ・公証人の間Sala dei Notari(一面の壁画)
 ・商業会館Collegio della Mercanzia(壁面、天井すべて寄木細工)
 ・両替商会館Collegio del Cambio(寄木細工の壁面装飾+ペルジーノの壁画・天井)

以下についての説明、写真は、次回ペルージャ②に書くことにします。

急な坂道を下りる、
 ・エトルリア門(力強い、帰り、坂道を登るのが厳しかった・・・)
 ・セン・セヴェーロ教会(若いラファエロがペルージャに残した唯一の壁画)
 ・エトルリア時代の井戸(苔むした、深さ37メートルの暗い空間!面白かった!)
 ・国立ウンブリア考古学博物館(ペルージャの石碑Cippo Perugino エトルリア文字の碑文、エトルリア時代の墓の再現が見られる)
 ・サン・ドメニコ教会(考古学博物館のそば)
 ・サン・ピエトロ教会(少し離れている、庭が素敵)

 

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2010年8月22日 (日)

五月の連休は、ピエロ・デッラ・フランチェスカ

Sfrancesco1 お盆も過ぎた今頃になって、五月の旅行について報告をするのも変ですが、その連休では、イタリア中部をレンタカーで廻ってきました。長年温めてきた、ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1410/20ー1492)追っかけの旅がとうとう実現したのです。!

アレッツオにある、サン・フランチェスコ教会の美しい《聖十字架伝説》(右の画像、両側の壁面一面に鮮やかな色で描かれている。詳細はまたいつか・・・)や、大聖堂にあるエレガントな《マグダラのマリア》をぜひ見てみたい!それから、ウルビーノにある、不思議な絵と言われる《キリストの鞭打ち》、短縮法で有名なセン・セポルクロの《キリストの復活》(下図)も見てみたい!

Resurrection

10年ほど前、ミラノのブレラ美術館見た彼の《モンテフェルトロの祭壇画》の、異様な静けさに驚き、かつその不思議な雰囲気にのまれて以来、ピエロ・デッラ・フランチェスカは私にとって忘れられない存在になっていました。この時を、どれだけ待っていたか!

ローマ(郊外1泊目)→ペルージャ(2泊目)→グッビオ→ウルビーノ(3泊目)→(山越え)→サン・セポルクロ→モンテルキ→アレッツオ(4泊目)→ピエンツァ→モンテ・オリヴィエート・マッジョーレ→モンテ・プルチアーノ→サン・タンティモ(下の写真)→サン・キリコ・ドルチャ(5泊目)→オルヴィエート→トゥスカーニア→タルクイア(6泊目)→オスティア・アンティカ→ローマ・フィウミチーノ空港

Antimo1

6泊7日のこの旅行、私が行程を考えるとあれもこれも入れてしまい、いつも忙しくなるのですが、今回は、狭い範囲を廻るだけなので、走行距離が短く楽な割には盛りだくさん。絵画観賞以外にも、ちゃんとサン・タンティモやトゥスカーニアのロマネスク教会も廻ってきました。

世界遺産も4か所、ウルビーノ歴史地区、ピエンツァ歴史地区、オルチャ渓谷自然遺産、タルクイアのエトルリア古墳と、相変わらずバラエティーに富んだ、充実したドライブとなりました。

Etruschi1

しかし、ウルビーノからサン・セポルクロの山越えで、またしても問題発生。あともう少しでモンテルキ、というところで、がけ崩れのため通行禁止。しかし、一本道のため、かなり戻らなければならなくなってしまい、かなりの遠回りを強いられ、少々疲れました。あれがなければ、アレッツオの街も、もっとゆっくり見られたのに・・・

しばらく記事を書いていなかったので、これから一か月程、この旅行を中心にブログの更新に努めたいと思います。いえ、他にもイタリアについて書きたいことはたくさんあるのですが、なかなか思うように行きませんね。

ついでですが、今庭園美術館で《有元利夫展》が開かれています。彼の絵を見ていると、いつの間にかピエロが現代に現れ、彼がこれらの絵を描いたのではないかしらと思えるような錯覚を覚えてしまいました。ただ、有元は、女性の雰囲気や描き方を取り入れただけで、ピエロの愛した幾何学は、現代人らしく無視していましたが・・・でも、それはそれで、彼の不思議な空間が広がっていて、見応えがありました。

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2009年8月27日 (木)

イタリア最初の世界遺産:ヴァルカモニカの岩絵群

  Camnica1_2

岩の上に描かれている絵が、お分かりになるでしょうか?ちょっと見慣れるまでに時間がかかるかもしれません。私も始めは分からず、何処にあるの?と主人と二人で一生懸命探してしまいました。そして、目が慣れてくると、ああ、ここにもあそこにも、という具合に見えてきたのです。

角のある動物とか人間も見えますよね。これがカモニカ渓谷で見られる、前期青銅器時代(紀元前1800年)から鉄器時代(前900~200)に描かれた絵なのです。先のとがった釘状のものでうがった穴を連ねて絵を描く技法によって彫られたのだそうです。

Cam5 イタリアでこういう前史時代の絵が見られると知ったのは、昨年10月から始まったNHKイタリア語講座「世界遺産を巡る旅」ででした。その初回がこのカモニカ渓谷の岩絵だったのですが、結構イタリアの事は知っていると思っていたのに全く初耳のこの話には、とても興味を持ちました。

しかも先生が、「掘りが浅い上に、常に風雨にさらされているので、いつか見えなくなるかもしれない」などと、危機感ある意見を述べられていたので、私は決心しました。絶対見に行こう!と。

2009年4月現在、イタリアには43のユネスコ世界遺産が登録されているそうですが、このカモニカ渓谷の岩絵群は、数ある遺産の中で、イタリア最初に指定された貴重な世界遺産です。正式名称は「ナクワーネ岩壁彫刻国立公園 Parco nazionale delle Incisioni rupestri di Naquane」。

ミラノの東にあるブレシアから北のほう全体がカモニカ渓谷でして、岩絵はこの広い地域に点在しているそうで、メインの場所の町の名は、Capo di Ponte です。

Cam_mapl Cam_mapr

きっとブレシア方面から来ると案内板もあったのかも知れませんが、私はサンモリップからの帰りに寄ったので、北から車で来たために、なんの看板もなかったのです。
どう行けばいいのかさっぱり分からず、Capo di Ponte の町(というか村に近い)に入り、水場のある小さな広場にいた人に尋ねました。「カモニカ渓谷の岩絵は、どう行けばいけばいいんですか?」と。

すると、そこにいた叔父さんとおばさんは、お互い顔を見合わせてにやっとし、「ここには、あちらこちらにあるから・・・」と、お互いにどの場所を教えようか迷ったようでした。そのうちおばさんが家に入り、また出てきて、パンフレット(上の画像、左側が北)を出し、「ほら、沢山あるでしょ?ここが大きいわよ。」と左下の国立公園を指差しました。

「Si,Si」と私が喜んで答えると、二人は争うように話し始め、結局おばさんの方が強く、「あなた、黙っててよ。私の言うのが正しいんだから!」見たいな事を言って、後はおばさんだけがしっかり説明してくれたのです。やはりイタリアはマンマが強い!

Cam2_sentier 教えられたとおり、上の図で右下の教会を廻ったあたりに着いたのですが、道はとても狭く、とてもこれ以上進めないと判断し、また私が車から降りて、近くの人に聞くことになりました。もう、いつも訊いてばかりです。「車で国立公園の入り口まで行けるのですか?」、答えはノー。駐車場はなく、このあたりに車を止めて、歩いていかなければならないのだそうです。(左は、入り口までの道、10分程)

Cam1_map そして、公園の中は右の図のようになっていて、山の中に散らばっている石を順に見ていくようにルートが示されています。番号が振られているので、迷わないようになっていますから安心を。

NHKの本には、「線刻画には、動物、狩り、舞踊、祈り、農業、航行、戦い、魔術などのテーマが描かれています」と書かれていましたが、実際に見ると、人とか動物の形は見分けがついても、そのほかは分かりません。しかし、それぞれの石には、右下のようなイタリア語と英語で書かれた説明板が立っていて、ゆっくり読めば何が書かれているのが分かるようになっています。(画像は全てクリックしますと拡大します。)

Cam4 Cam3_inf

Cam6_sac この説明と同じ内容の本(イタリア語のみ)が、入り口近くの売店に売られていたので買ってきたのですが、それを入れてくれたビニール袋の絵が良かったので、ここにアップしておきます。

今年2009年という年は、1909年のこの岩絵が始めて公に認められてから100年、そして、1979年にユネスコから世界遺産として認められてから30年という年に当たるのだそうです。結構いい記念になるかも!

それにしても不思議ですね。どんな時代でも、人間っていろんなメッセージを残そうとするんですね。イタリアに住んでいた、エトルリア人以前の古代民族「カムーニ」の日常生活を少し感じられて、満足してこの公園を後にしました。

今回、初めてグーグルマップを入れてみました。どんどんマイナスをクリックしていくと、広域地図になり、Capo di Ponte がイタリアのどのあたりかが分かると思います。

大きな地図で見る

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2009年1月16日 (金)

旧ボローニャ大学 アルキジンナージオ Archiginnasio

Bl_archi1_2 パドヴァにて、パドヴァ大学の中庭を目の前にしながら、構内見学ツアーの時間が合わなくて入れなかったのがとても残念で、ぜひともこの旧ボローニャ大学(アルキジンナージオ Palazzo dell'Archiginnasio)には入りたいと思っていました。

場所は、街の中心ペトローニオ聖堂のすぐ左横の通り沿い、市立考古学博物館のすぐ先にあります。とても分かりやすいはずなのに、通りの雰囲気がとても良くて、気持ちよく歩いていたら、行き過ぎてしまっていました。それ程近いのです。

入り口から、このような紋章に覆われていて、うわっ!うわっ、凄~い!と興奮しながら中へ。

Bl_archi4 中庭もこのように紋章でいっぱい。パドヴァの大学と比べると、こちらの方が古いはずなのに、パドヴァの方が古く見えました。色が明るいからでしょうか?また、パドヴァの中庭もアップしますね。

この建物は、1562-63年に建設され、1803年までは旧ボローニャ大学の校舎、そして今では、写本を含む60万冊の蔵書を有する重要な市立図書館となっています。

今回は夏休みなのか時間の関係なのか、とにかく図書館は閉まっていて、その様子を見ることはできませんでした。

Bl_archi3 公開している解剖室は2階にあるらしいので、矢印従って階段の方へ行きましたら、ウワー!この狭い空間も右の写真のように、紋章模様でいっぱい!思わず写真を撮ってしまいました。

そして、上がりきって右方向をみると、下の写真になります。

Bl_archi8

2階の廊下にまで、紋章で溢れているのですね。といってもこの廊下、元はガラスは無くて、建物の外廊下になっていたはずだと思います。パドヴァの大学がそうでしたので・・・

この廊下正面が、図書館の入り口、右に曲がっていき、さらに曲がると、解剖室の入り口になります。

Bl_archi10 さて、いよいよ解剖室です。実はここで、監視係りの女性から、英語で書かれたA4サイズの解説紙を頂き、ついでに本も購入したのですが、なぜかそれらが見つからないのです!これで解剖室について詳しく書ける、と楽しみにしていたのに・・・残念です。

どうもこの部屋は作り変えられたとかで、天井だけが本物だそうです。手前の白い台が解剖台ですが、こういうのを見ると、レンブラントの絵「テュルプ博士の解剖学講義」(マウリッツハイス美術館)とか、前田青邨の「腑分け」(山種美術館)を思い出してしまいますね。

Bl_archi9 左は天井の写真。凝っていますね。(後述:井上ひさし氏「ボローニャ紀行」に寄りますと、真ん中の像は、医学の考案者とされるアポロ像で、周囲は星座の文様なのだそうです。)

ゆっくりと見学し、部屋を出ようとしたとき、その監視の女性が、私と側にいたスペイン語でガイドしていた女性に、なんとなく急かすように、「早くそこを曲がって、向こうの部屋に行きなさい!その部屋に私の友人がいるから、その人に、私からこちらに来なさいと言われた、と話しなさい!」と言うのです。

きっと時間の関係で、その部屋を閉めるのかもしれない、と思い、彼女にお礼を言い、急いで、階段を登りきった場所を反対側の方へ進み、正面の部屋に入りました。

うわー!なになに、この部屋は・・・!下のほうには本箱が並んでいるものの、壁という壁は紋章で埋まっています。中には、豪華なタピスリーになっているのもありました。

    Bl_archi12_2

別の女性にスペイン語(ポルトガル語かも?)ガイドをしていた女性が、私に英語で声をかけてきました。「ここでは昔、ロッシーニーが演奏をしたことがあるのよ。」「あっ、そうですか・・・」。

なんでも、ここでロッシーニーが「スタバト・マーテル」という曲の初演を行ったそうで、そういう理由から、この部屋は「スタバト・マーテルの間 Sala dello Stabat Mater」と呼ばれるのだそうです。現在でも、時々ここでミニコンサートも開催されているとか。

Bl_archi16 現地のパネルの地図を載せておきます。

1: スタバト・マーテルの間
2: 廊下に古い本の展示
3: 解剖室
ピンク色のエリア: 図書館関係

説明書が無いために、詳しいことが書けません。すみません、頂いた紙を探してみます。

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2008年8月19日 (火)

コレッジョに会えなかった・・・

3年ぶり10回目のイタリア旅行を終えてきました。6泊8日という短い旅でしたが、炎天下の中、街をあちらこちらへとうろうろし、もうよれよれです。

主人は私より多くイタリアへ渡っているはずなのに、訪れているのは同じ大きな街ばかり。今回は北イタリアの地方都市を回りたいという主人の希望を取り入れた為、私にとっては2度目の街も結構ありました。でも、そのおかげで前回パスしてしまった箇所を訪問できたり、記憶の確認にもなったりと、とても有意義な旅行になったと思います。しかし、以下でお分かりになると思いますが、失敗もたくさんありました・・・

Padova_rasione 
(パドヴァ ラジョーネ宮)

日程は・・・あまりにも日本人旅行タイプの忙しいスケジュールなので、書くのがちょっと恥ずかしいです。

8月9日(土) 夕刻ミラノ着 レンタカーを借りる。 マルペンサ空港近く泊
8月10日(日)                ヴェローナ泊 
  ◆マントヴァ Mantova
     ・エルベ広場 Pazza delle Erbe
     ・サン・タンドレア教会 Basilica di Sant'Andrea(マンテーニャの墓)
     ・サン・ロレンツォ円形聖堂 Roronda di San Lorenzo
     ・ドゥカーレ宮殿 Palazzo Ducale
     ・テ宮殿 Palazzo del Te

 ◆ヴェローナ Verona
     ・サン・ゼーノ・マジョーレ教会 San Zeno Maggiore
   (ブロンズ製の扉、マンテーニャの3連祭壇画)
     ・ローマ劇場近くの展望台
     ・アレーナ Arena
     ・シニョーリ広場、エルベ広場、スカリジェリ家の廟
                                
8月11日(月)         パドヴァ泊
 ◆ヴェローナ VErona
     ・サンタナスタシア教会 Chiesa di Sant'Anastasia
  (ピサネルロのフレスコ画「トラプゾンの王女を救い出す聖ゲオルギウス」)
     ・Duomo (ティツイアーノ「聖母被昇天」)
     ・サン・フェルモ・マッジョーレ教会 Chiesa di San Fermo Maggiore
          (ピサネルロのフレスコ画「受胎告知」)

  ◆パドヴァ Padova
     ・パドヴァ大学、ラジョーネ宮
     ・スクロヴェーニ礼拝堂 Cappella degli Scrovegni(ジョット)
     ・サン・タントニオ教会 Basilica di Sant'Antonio 
   (ドナテルロのガッタメラータ騎馬像と主祭壇、アルティキエーロのフレスコ画、隣にある信徒会2階 ティツイアーノのフレスコ画を忘れる!)
     ・エレミターニ教会 Chiesa degli Eremitani
   (マンテーニャのフレスコ画、ジョットの弟子グワリエントのフレスコ画)

Basilica_di_santantonio 
  (パドヴァ サン・タントニオ教会)
                                 
8月12日(火)       ラヴェンナ泊
 ◆フェッラーラ Ferrara
    ・スキファノイア宮殿 Palazzo Schifanoia (「12ヶ月の間」のフレスコ画)
    ・サンタ・マリア・イン・ヴァード教会
    ・ロメイの家 Casa Romei
    ・Duomo (美術館は休館中)
    ・エステンセ城 Castello Estense (リッピ父子のフレスコ画)

Fer_smaria_in_vado1 
  (Ferrara サンタ・マリア・イン・ヴァード教会 )

 ◆ラヴェンナ Ravenna
     ・ネオニアーノ洗礼堂 BattisterobNeoniano
     ・サン・ヴィターレ教会 Basilica di San Vitale
     ・ガッラ・プラチディアの霊廟 Mausoleo di Galla Placidia
     ・サンタポリナーレ・ヌオーヴォ教会 Basilica di Sant'Apollinare Nuovo
     ・サンタ・マリア・イン・ポルト教会
     ・サンタポリナーレ・イン・クラッセ教会 Basilica di Sant'apollinare in Classe
     ・ダンテ海岸 (下の写真 アドリア海は結構波が荒かった)

Rido_dante

8月 13日(水)     ボローニャ泊
 ◆ボローニャ Bologna
      ・斜塔、マッジョーレ広場、ネットゥーノの噴水
      ・サン・ペトロニオ聖堂 Basilica di San Petronio
      ・アルキジンナジオ宮殿 Palazzo Archiginnasio 旧ボローニャ大学
      ・サン・ドメニコ教会 Chiesa di San Domenico
   (ニコラ・ピサーノ作の墓所、フィリピーノ・リッピ「聖カテリーナの神秘的な結婚」)
      ・国立絵画館 (カラッチ家、グイド・レーニ)
      ・市庁舎 Palazzo Comunale (2階のフレスコ画、アート・コレクション)
      ・サン・ジャコモ・マッジョーレ教会 Chiesa di San Giacomo Maggiore
      ・聖チェチリア礼拝堂 Oratorio della Santa Cecilia
      ・サント・ステファノ教会 Cheisa di Santo Stefano

8月14日(木)    パルマ泊
 ◆モデナ Modena
     ・ Duomo (塔の修復中。地下聖堂に向かうジュペが美しい)
      ・エステンセ美術館 (図書館は閉館していた、残念。コスメ・トゥーラ「聖アントーニオ」はボルゲーゼ美術館に出張中で見られず。ヴェネローゼ、ティントレット、グレコ、コレッジョ、パルニジャーノ、ドッソ・ドッシ、カラッチ兄弟など)

 ◆パルマ Parma
  (午後に着いたので、ピロッタ宮殿内国立美術館とサンパオロ修道院は閉館。翌日の15日は祝日の為休館とか・・・要するに見られなかったのです・・・)
     ・Duomo (修復中の為コレッジョ見られず)   
     ・洗礼堂 6€ 美しいフレスコ画
     ・サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会(修復中の為コレッジョ見られず)

Par_duomo1 
 (パルマ Duomo内部)

8月15日(金) 祝日、美術館は休み、教会はミサ 21:45ミラノ発
 ◆クレモナ Cremona
     ・コムーネ広場、トラッツオ
     ・コムーネ宮 Palazzo Comunale (バイオリンのコレクション)
     ・Duomo
     ・サン・タゴスティーノ教会 (ペルジーノの祭壇画 とても美しかった)
     ・サン・シジスモンド教会 (郊外 一面のフレスコ画)

 ◆ピアチェンツア Piacenza ファルネーゼ宮殿は休館
     ・ゴティコ館
     ・Duomo (中へ入れず、塔の上に罪人のかご)

8月16日(土) 夕刻東京着
      

旅行の3分の2ほど終えたボローニャでトラブル発生。予約していたホテルが見つからないのです。車でホテル周辺を何度回ったことか・・・・。
電話してようやく分かったことは、なんとホテルの名前が変わり、しかも私達の予約が入っていないとか・・・ええーっ!!

いつもホテルの予約は、ネットのアップルワールドで予約をしていたのですが、このような問題は始めてでした。私達は既に代金を払っており、バウチャーをホテルに提出するだけでいいはずなのに・・・

Cre_sigis1_2  結局、ホテル側が先ず契約した会社に連絡をし、そこで取引をすること、それができなかった場合はこちらのカードから費用を引き落とすとの事。そして、私達が契約した会社と交渉をし、費用を取り戻す、という段取り。ホテルは宿泊できたので、後は、ホテルと会社の交渉が上手くいくことを期待するのみ。その後、携帯電話に何の連絡もなかったので、上手くいったのかもしれません。

コレッジョを楽しもうとパルマに行ったものの、祝日と修復工事の為に全然見られなかったのが想定外の失敗。また小さい都市の美術館は開館時間が午後2時までという事や、8月15日が祝日だという文化的なことを知らなかった事も大きな失敗。

旅行の前半のラヴェンナまでは私が2度目という事もあり、楽にたくさん見られたのですが、ボローニャ以降のモデナ、パルマ、クレモナは美術館を観ることができず散々でした。私の計画が非常に良くなかったようで・・・ほんとに残念です。
(右の写真は、クレモナのサン・シジスモンド教会天井)

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2007年9月28日 (金)

ゲーテを不愉快にさせた街フェラーラ② FERRARA che e dispiaciuto a Goethe

Ferufficio 1786年9月から始まったゲーテ(1749-1832)のイタリア旅行、彼は10月中旬頃ヴェネチアから船で二晩かけて、アドリア海からポー川を上ってこのフェラーラに到着した。船旅は満足したらしのだが、着いた早々、次のように書いている。(右の写真は、元エステ家の最初の邸宅、現在は市役所)

『10月16日夜、フェララにて。
ドイツ時間で朝の7時にここへ着いたが、明日はもう立つつもりで用意している。この大きくかつ美しく、地形が平坦で人口の減少してしまった都市に来て、初めて私は一種の不愉快さにおそわれた。かつて荘厳な宮廷が、この市街を飾っていたのだ。・・・』

この街の案内人が、ゲーテの望んでいるような案内(ルネッサンスの作家タッソーの足跡をたどりたかった)をしなかったことに腹をたて、さらに、この街にも幻滅を感じたようだった。

Estense

フェラーラは、1208年から1598年まで文化・芸術を擁護したエステ家の支配下におかれていたが、のち1797年まで法王領となっていた。ゲーテが訪れたのは、この法王領の時で、本の解説によれば、時の市の人口は2,3千人、かつてエステ家の領地であった頃と比べると、人口は約4分の1に減少していたのだそうだ。

別の本によると、エステ家最盛期はなんと人口4万人に達していたらしいので、そう考えると10分の1以下ということになる。文芸の保護者を失った街は、生気を失っていく。ゲーテが訪れたときの街は、ゴーストタウンのようになっていたのかもしれまい。

Fereste1 しかも、エステ家の居城であったエステンセ城(Castello Estense 上の写真)は、旅行案内書にもあまり魅力ある建物とは書かれていない。確かにマントヴァのゴンザーガ家の迷路のような大宮殿ドゥカーレ宮殿と比べるとははるかに及ばないけれど、私は、それなりにおもしろかった。

見るものは天井のフレスコ画と地下の牢獄、そして上の写真に見える塔の一番上に登れること(階段が大変だった・・・上からの写真はフェラーラ①を参照)など。(右の写真は、お城1階内部)

要塞のようにがっしりしたこの建物は、イタリアのお城にしては珍しくお堀に囲まれている。それは、エステ家が、ルネッサンス文化を大いに繁栄させた反面、妻や愛人を殺したり、甥を暗殺したりなどのむごい歴史も持つという負の面が、このように建造物を閉じたものにしたのかもしれない。

Estense5

建物自体は大きいので、構造は複雑かと思われますが、実際はひどくシンプル。次のように一周しているだけです。

Plan_estense

Estense7

しかし、天井のフレスコ画は、色鮮やかでとてもとても綺麗だった。あまりにも天井画が高いので、部屋の中ほどに長方形の大きな硝子が斜めに置かれていて(下の写真)、それを見ると、天井を見上げなくても楽に上のフレスコ画が見られるようになっている。

Estense8

天井画は、撮りかたが悪くて分かりませんが、ローマ時代のような男の人たちが、裸でいろいろなゲームをしている様子が描かれている。あまりにも立派で丁寧に描かれていたので思わず写真をとってしまった。

Fereste4

Fereste5 この右写真も別の部屋の天井画、ピンク色などパステルカラーなども入っているので、優しい感じがする。このエステ城は、全体の部屋の4分の1ぐらいしか公開していないので、お城としては、物足りないかもしれない。それなのに、7ユーロもかかる。見学者が少ないから高いのかなあ。

ちょっと怖かったのは、地下の牢屋。
1階の通路上に大きな木扉があり(つまり、地面に穴が空いていて、そこが出入口になっている)、そこから下への階段を降りるようになっている。このドアは廊下側、つまりドアの上から大きな鉄製の鍵がついているので(牢獄へ行くのに鍵は当たり前だけれど)、水平的でなく上下でドアを閉められてしまうとことになり、ドアの上に重しを置かれたりすると、絶対開けられない!そういうことを思うと、ぞっとした。

Estense6 さらに、下には、厚い土壁で囲まれた窓の無い牢獄が並んでいた。それぞれに重い木の扉、何重にもある大きな鉄の鍵など、閉所恐怖症の私には気持ち悪くなるほど怖かった。見学者は私達以外にいなかった事が、さらに恐怖を増幅させたのかもしれない。逃げるように小走りで、その場所を離れた。

それにしても、左の写真みてください。牢獄の入口ドアのすごい厚さ!そして、外からかける鍵、これでは絶対内側からは開けられないですよね・・・

他に訪れたのは、外壁がダイオモンドのように見えるディアマンティ宮殿(Palazzo dei Diamanti)。これは、なんと1万2500百個の大理石をダイアモンドのようにカットしたもので、フェラーラのような平らな土地には大理石が無いことを考えると、全く豪華な建物といえる。

Ferdiamanti

中は、国立絵画館(Pinacoteca Nazionale)になっていて、フェラーラのルネッサンス期の画家の絵を見ることができる。ところが恥ずかしいことに、フェラーラ派と呼ばれる絵の特徴が摑めず、さらに、適当な図録も無かったので、もう記憶に残っていない・・・残念。

Garofalo_and_dosso_dossi_polittico_ 買ってきた絵葉書を頼りに写真をアップすることにして、これは、ガロファロとドッソ・ドッチ合作の「コスタビリ多翼祭壇画」。いろんな意味で、もう一度見ないといけない、と改めて思う。

さて、見学した建物はこれだけだが、見るべき価値のあるものは、祝宴用の別宅スキファノイア宮殿だったようだ。保存はあまりよくないものの、各月に相当する神々の勝利の場面や、黄道12宮の寓意像などが描かれている壁画がすばらしいのだそうだ。実は、この建物も予定には入れていたのだけれど、大聖堂とエステンセ城、そして美術館とで疲れてしまい、パスしてしまった・・・残念。どうしてもフェラーラはもう一度行かなくてはならない。

さて、このフェラーラで言及しなければならないのが、中世の彩飾写本芸術の最高といわれる「ボルソ・デステの聖書」(Bibbia di Borso d'Este 1465完成)。

Bibbia_17_di_borso_deste

文芸保護者であった(派手好みでもあったらしい)ボルソ(在位1450-1471)は、当時貴族が好んで自分専用の豪華な聖書を持つことを欲していたように、彼も1455年、写字生ピエトロ・パオロ・マローネ、写本彩飾画家タッデーオ・クリヴェッリ、フランコ・ディ・ルッシと契約し、聖書の写本を作成させた。どうです、うそのように美しいでしょう?

実は私はこれを、2002年の6月ごろ、飯田橋近くの印刷博物館で開催された「ヴァチカン教皇庁図書館展」で見ている。もう本当に綺麗だった、他のどの聖書よりも!!硝子越しに、食い入るように見たのが忘れられない。この美術展は、印象に残るすばらしいものだった。

フェラーラに関する記事: ①フェラーラ大聖堂
                ③スキファノイア宮殿 

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