カテゴリー「フランス France」の21件の記事

2007年10月28日 (日)

続続続:大好き オーヴェルニュ地方 アルーズ城・ガラビ陸橋 L'Auvergne que j'aime

さて、3日目の続きです。
主人がここまで来たならば、エッフェル塔を建てたギュスターヴ・エッフェルが建造したというガラビ陸橋を見たいということになり、さらに南へ向かう事にしました。

非常にマイナーな場所なのです、ガラビ鉄橋がある場所は・・・ミシュランの地図をみると、その近くに2つ星のアルーズ城というお城があるらしいことがわかり、先ずそこへ行くことにしました。全然対向車もいない山の中を、この道がほんとにいいのかな、と不安を感じながら走らせていました。

Alleuse_aspect

Alleuse_pente どこまでも細く曲がりくねった道が続きます。ようやく、フランスをドライブしていると、よく小高い丘の上に見かけるような壊れてしまった要塞が見えてきました。これがアルーズ城(Chateau d'Alleuze)のようです。

一見して、この山は高くないような気がして、登ることにしたのですが・・・大変な作業でした。足元は悪いし、急な坂道だし・・・後悔したのですが、もう登るしかありません。

Alleuse_tour_2  それにしてもこんな山の中、どうしてこのような要塞が必要だったのでしょうか?不思議でした。でも、上に登って始めて分かりました。左の写真のように、この要塞から河が見えるのですが、昔から重要な交通路だった河、この河を監視したかったのではないでしょうか?

こちらのフランス語版ウィキペディアを読んで、簡単な歴史は分かりました。

13世紀、オーヴェルニュの高官によって建てられたこの城は、クレルモンの司教たちに属していたのですが、100年戦争の時、イギリス軍側のベルナルド・ド・ギャルラン(Bernard de Garlan)に占領されてしまいます。

彼は、この地方を恐怖に陥れました。もう彼を追い払うしかありません。ギャルランがこの城の後継者になるのを避ける為に、サン・フルールSaint-Flourの住民達は、1405年、この城に火を放ったのです。

その後、この城の所有者となったトゥールの大公は再建を拒否。そしてその廃墟のまま、現在に至っているのです。城は、穴がいくつも開いたような、壊れた高い塀しか残っていませんでした。でも、この写真のとおり、頑丈な塔が当時の要塞の雰囲気を残しています。

サイトを探すと、こちらに重厚な音楽と共にアルーズ城の異なった雰囲気の写真を見ることができます。

さて、漸く念願のガラビ陸橋です。よくこんな辺鄙なところまで来ました。結構綺麗な写真がとれましたね、満足です。

Garabit

次は、北西にあるカンタル山塊の巨大火山一つ、1787メートルのピュイ・マリーPuy Maryに向かいました。時々現れる小さな村などの田園風景を楽しみながら、ひろーいひろーい平原をどんどん進んでいきます。すれ違う車も無く・・・次のようなところを走っていくのです。左下の斜めの線が道なのですが、車が一台も見えないでしょう?そこを私達はドライブしていたのです。

Puy_mary

向かう先は、雪山でした。どのくらい登ってきたでしょうか、あちらこちらに残っている雪を見ながらドライブしていたら、突然、標識がでてきて、「FERME」と書いているではありませんか!これ以上行けないのです。まだ山開きが行われていないのでしょう。う~ん、残念!でも、その場所は、他の山々より高い位置にあり、ずーっとずーっと遠くまで見渡せ、うそのように美しい景色でした。人がドーンと立っているために、写真をお見せできないのが残念です。

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2007年10月27日 (土)

続続:大好き オーヴェルニュ地方 ブリウド L'Auvergne que j'aime

Brioude 3日目に廻った場所を右の地図で示しておきます。ル・ピュイ・アン・ヴレ Le Puy-en-Velayの2つの教会についてはもうすでに書いているので、リンクだけつけました。

3日目(5/1) ル・ピュイ・アン・ヴレ Le Puy en Velay(サン・ミシェル・デギュイユ礼拝堂ノートル・ダム大聖堂
→ブリウドBrioude(教会)→サン・フルール(教会)
→アルーズ城Alleuze(山の上の廃墟、山登り)
→ピュイ・マリーPuy Mary(標高1787mカンタル山脈の巨大火山、途中まで、それ以上は閉鎖されていた)
→ガラビ鉄橋Garabit(エッフェル作)
→クレルモン・フェラン(泊)

Brioude_exter ル・ピュイからイソワールへ向かう途中に、ブリウドBrioudeという町のサン・ジュリアン寺院(Basilique St-Julien)を訪れました。

現地で購入してきた本(Les Tresors de L'Auvergne Romane)を読みますと、興味深い伝説が残っていました。

304年、キリストに改宗したローマの武将ジュリアン(ユリアヌス)が、亡命の為にオーヴェルニュのヴィエンヌVienneに逃げてきたのですが、ここブリウドBrioudeで追いつかれ、首を斬られてしまいました。

ヴィエンヌの町に持ち込まれた彼の頭は、彼の仲間であるフェルレオルFerréolの体の横に埋められました。アルソンArconsとイルピズIlpizeという二人の老人が、このブリウドで拷問された人の体を埋める仕事に携わっていたのですが、それが終わると、なんと奇跡的に二人の体が若者の姿になっていたのです。

これが、最初の奇跡となり、ブリウドは巡礼者が押しかける町へとなり、その後、コンポステラへの巡礼路上の街の一つとなったのだそうです。

Briou_exter 1060年にナルテックス(玄関廊)が造られ、1180年に内陣、後陣が完成。なお、オーヴェルニュ特有と言われる複数の半円形のスレート屋根を持つ形の後陣は、オーヴェルニュのロマネスク芸術の最後の作品だそうです。

右の後陣を見てください。上の屋根の下にあるモザイクなんか綺麗でしょう?それだけではなくて、上の写真に見える鐘楼の屋根も実はとても鮮やかなモザイク模様になっていて、とても美しいのです。

この本によりますと、ロマネスクの金銀細工の宝飾術を真似て、バジリカ建設において、オーヴェルニュにあるすべての微妙に異なる様々な色合いの石を使うことにしたのだそうです。

Allevierの赤い砂岩、Boaumontの石灰岩、Vergueurの黒茶色や濃い赤色の玄武岩、Saint-Justの白粒岩、Lauriatの灰色とピンク色の大理石など、オーエヴェルニュ地方のあちらこちらから多様な石が集められ、鐘楼の多色屋根や大アプシスのオーヴェルニュ独特のモザイク模様に使われたのです。

Briou_inter_4   

きっと地元の人々にしてみれば、オーヴェルニュのUnitéと考えるのかもしれません。愛着があるでしょうね。外部の石もいろんな色が積まれていて、つぎはぎだらけのようで素朴な印象を受けます。内部も非常に古くて(今は、オーヴェルニュのロマネスク教会が一斉に修復作業をしているので、きれいになったかもしれませんが)、特に柱は目を引きます。

上の写真(はっきりしていなくてすみません)の柱を良く見ると、いろんな模様が見えます。左の柱には絵も描かれていますね。きっと本来は、とても色鮮やかな教会内部で、華やかだったのではないでしょうか。

Briou_fresque それを彷彿とさせるのが、ナルテックス階上の天井に描かれている13世紀のフレスコ画です。中央には、2本の指を立て祝福している栄光のキリスト、その他100人の天使などが見て取れます。

教会も素朴な印象ですが、この町の家々を見ていても、日本の古い町並みを思い出してしまいました。どこが似ているのかな、と考えたら、ずーっと並んだ家々のドア枠や窓枠がすべて幅の広い木でできていたのです。材料の木があるだけで、こんなに柔らかな印象を受けるとは、驚きです。

残りの2日分を1回で終わらそうなんて、とんでもない考えでしたね。ブリウドの教会だけで、この長さになってしまいました。早く、オーヴェルニュを終わらせたいです。

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2007年10月26日 (金)

続:大好き オーヴェルニュ地方 L'Auvergne que j'aime

サルコジ大統領がとうとう離婚しましたね。まあ、随分前からこうなるとみんな思っていましたが。年金制度の改革案に対しては、フランス以外の国の人にとっては正当な改革案だと思うのですが、お役人の多いこの国では全国的な抗議デモ(manifestation)、そしてSNCF、RAPTが大々的なストを行うなど、全くフランス人魂健在です。

Plan_2 さて、私は、美しいオーヴェルニュの写真をアップすることにします。

2日目(4/30) クレルモン・フェランから南西へ→オルシヴァル Orcival(教会) → ギュエリー湖 → モン・ドール(Monts Dore)山塊の中の一つ、ケーブルカーで山頂へ、ピュイ・ド・サンシー Puy de Sancy(標高1885m) → シャンポン湖 → ミュロル城 → サン・ネクテール(教会) → ル・ピュイ・アン・ヴレ(泊)

Photo_3 先ずは、オルシヴァルへ行く途中に出会った景色。なだらかな丘やちょっとした山を越えて車を走らせていると、目の前に現れた一面のタンポポ。嬉しくて思わずパチリ。

ひろーい緑の草原に、牛が一頭だけのんびりと水を飲んでいたり、菜の花畑がずーっと広がっていたり、とにかく、春の気持ちよい景色が続いていました。

Chateau_de_cordes オルシヴァルの手前で、木々の間からくっきりと整ったお城(Le Chateau de Cordes)(右の絵葉書) が見えてきました。あまりにも綺麗に前庭が整っていたために、入りにくくて素通りしてしまったのですが、今ネットで探してみましたら、ちゃんとありました。こちらでご覧になれます。お城の内部も綺麗ですね。

サイトを読みますと、15世紀に建てられた歴史的建造物に指定されているこのお城は、礼拝堂が併設されており、左右対称の整った前庭は、ヴォー・ル・ヴィコント城やヴェルサイユ宮殿の庭を作成したル・ノートルが作図したようです。

Orc_extest_2 やっと山の木々の間から、教会が見えてきました。山間の狭い平地に密かに建っているこのオルシヴァルの教会。回りにはお店らしきものも見当たらず、近くに車を止めたものの、全然人影が見当たらず、あたりはガラーンとした状態。

おかしいな、と思いながら教会のドアを開けてびっくり。村人ほとんど全員がそこに居たと思われるほど堂内は人で溢れかえっていたのです。中は人の熱気と蝋燭の煙でむせ返っているようで、何か式典でもしているらしく、とても異教徒の人が入れる状態ではありませんでした。残念。ここには柱頭彫刻がすばらしい上に、有名な聖母子像があったのです。こちらのサイト(フランス語)に詳細が書かれていますが、また気が向いたら訳してみたいです。

オルシヴァルを出てモン・ドールを目指して南下。とにかく周りは見渡す限り高原ばかりが続いています。

Mt_dore_de_loin_2 どんどん高度が高くなって、左のように雪に覆われた山々が目の前にどーんと見えてきました。広い道路には私達だけしかいなくて、この先行けるのかと不安になりながらもわくわく。

モン・ドールにあるロープーウェーを発見。結構お客さんも居て安心。やはり誰も居ないと不安ですものね。山頂は一面の雪!遊歩道を歩くことも出来るし、テラスには、テーブルがセットされていて、ゆっくりすることもできるのですが、寒くて早々に退散。

Mt_dore_sommet_4 左のような景色です・・・人物が入っていなければ、美しい景色だったのですが・・・当時の写真は、いつもこのように人を真ん中に入れて撮っていました。アルバムに写真を張っていると、人物が映っていないのは、寂しく感じたからなのです。

山を降りてサン・ネクテールへ行く途中、湖を発見。山ばかり見ていたので、なぜだか非常に美しく見え、ホッと一息。湖岸では、子供づれ家族が楽しそうに遊んでいました。のんびりとした良い景色です。

Murol_paysage_2 走っていると、右の絵葉書のように山の上に廃墟のような城塞(Chateau de Murol)が見えてきました。Cordes城を見なかったのを後悔していたので、今回は訪れることに。

12世紀に要塞化されたというこのお城、いくつもの階段を登らなければ、一番上にたどり着けません。荒くカットした石が積み上げられている塀をみると、頑丈で粗野な感じがしますが、これも中世の城というのが戦うために建設されたのだからなのでしょう。内部構造は、次の絵のようになっています。(クリックすると拡大します)
Murol_plan_3

そしていよいよサン・ネクテールの教会に到着、この教会については別の機会にさせて頂きます。道路沿いの小さな店で有名なサン・ネクテールのチーズを買おうとしたのですが、な、なんと大きい!!直径が30センチぐらいありそう、これです。、そのお店には、小さくカットしたのは見当たらず、なんとなくカットしてください、と頼めず、見ただけで満足して出てしまいました。

Photo_4 そうそう、ミュロル城からの景色を撮った写真がありました。オーヴェルニュの景色そのものです。

2日目だけで、また一回分が終わってしまいましたね。残り2日分は、一回で終わりにしたいと思います。

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2007年10月18日 (木)

大好き オーヴェルニュ地方 L'Auvergne que j'aime

私がオーヴェルニュを訪れたのは、2000年4月下旬、パリから3泊4日の旅でした。考えたらもう今から7年半も前のことなのですね。月日が経つのは、早いものです。

Orc_card でも、オーヴェルニュの景色は、忘れたことがありませんでした。ほんとすばらしかったのです。美しい自然が奏でるハーモニーというか、穏やかな山々の間に点在する村と自然と教会とが一体化しているように思いました。フランスの中で一番好きな場所です。

右の絵葉書を見てください。山の間からふと見えてくるオルシヴァルの教会です。大自然の中で、長く深い人々の信仰が溶け込んでいるその堂々とした姿が美しかったです。

当時の旅行を思い出して、教会以外で美しかった景色の写真をアップしてみたいと思います。ただし、写真をスキャナーで取るので鮮明ではありません。おまけに、綺麗な景色も必ず主人か私が映って居る為にアップできないのも沢山あります。ほんとに残念です。

〔日程〕

1日目(4/29) パリ→シュヴェルニー城(Cheverny)→ノワルラック修道院(Abbaye de Noirlac)→ピュイ・ド・ドームPuy de Dôme(標高1465m、眺め抜群、写真はこちら)→クレルモン・フェラン(泊)

Chev_aspect_2 左は、ロワール流域の古城シュヴェルニーの外観の半分です。人物が入っていたのでカットしました。変な写真ですみません。下は、内部です。

1604年から1634年にかけて建てられた、左右対称の白く美しい建物です。ロワールで人気のお城シュノンソーは所有者が何人も代わっていきましたが、ここは、700年もの間、同一の家系に属している私有地で歴史的建造物に指定されている貴重な建物です。

設計は、ブロア城やシャンポール城も担当したポワチエ・ドウ・ブロア、装飾はジャン・モニエという当時有名な画家が担当しました。あまり修復の手が入っていない少し古い印象を受けるお城です。

また、階段も当時はらせん階段が普通であったにもかかわらず、ここでは、現在のような直線的に踊り場に上っていくタイプになっています。
Chev_chambre_du_roi Chev_trophees

左は、シュヴェルニー城のアンリ4世が寝たという「王の寝室」。天井は「イタリア風仕切り」、周りのタピスリーは、ゴブラン織りに先立つ1840年頃、パリで作られたものだそうです。

右は、付属の建物にある、狩猟で得た2000近くある鹿の角。圧倒されました。

Noir_nef
オルレアンとクレルモン・フェランの中間あたり、人里離れた場所にひっそりと佇むノアルアック修道院(Abbaye de NOIRLAC)は、ロマネスク様式末期時代からゴシック初期の建物で、その簡素でどっしりした様子は重厚で敬虔な様子がうかがえます。白くて飾りがないのがいっそう宗教心をかけたてるような気がしますね。当時はステンドグラスもはめられていたらしく、回廊の装飾も非常に美しいです。詳しい話は、現地で購入してきた本を読んで、また書きたいと思います。(これも絵葉書ですみません。全部人物が入っていまして・・・)

Noir_cloitre_2

2日目(4/30) クレルモン・フェラン→オルシヴァル Orcival(教会)→ギュエリー湖→ル・モン・ドール山塊の中の一つ、ケーブルカーで山頂へ、ピュイ・ド・サンシー Puy de Sancy(標高1885m山頂、雪山)→シャンポン湖(山ばかり見た後だったので、非常に美しく見えた)→ミュロル城(中世の雰囲気が残るお城)→サン・ネクテール(教会)→ル・ピュイ・アン・ヴレ(泊)

3日目(5/1) ル・ピュイ・アン・ヴレ(サン・ミシェル・デギュイユ礼拝堂ノートル・ダム大聖堂)→ブリウド(教会)→サン・フルール(教会)→アルーズ城(山の上の廃墟、山登り)→ピュイ・マリー(標高1787mカンタル山脈の巨大火山、途中まで、それ以上は閉鎖されていた)→ガラビ鉄橋(エッフェル作)→クレルモン・フェラン(泊)

4日目(5/2) クレルモン・フェラン(ノートル・ダム大聖堂、ノートル・ダム・デュ・ポール・バジリカ聖堂)→イソワール(教会)→リヨム(教会)→モザック(教会)→ヴィシー(温泉)→パリ

長くなったので、2日目以降は、次の回に書く事にします。

続大好き オーヴェルニュ地方

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2007年5月 9日 (水)

シラクとサルコジのかつての風刺漫画 ancien caricature qui dessinait la relation entre Chirac et Sarkozy

経済界に絶大なコネクションを持っているサルコジ氏がフランス大統領になりましたね。個人的には、ロワイヤル氏がこんなに頑張れるとは思ってもいませんでした。

決してサルコジ氏を応援していたわけではありません。ただ、ロワイヤル氏の古典的な国家依存型政治を推し進めると、フランスは益々競争力のない、意固地な国になるのではないかあと不安に思っていただけなのです。

一方、サルコジ氏に対しては、彼のあまりにも冷たい弱者への態度には疑問を持っていたのですが、彼の主張するアメリカ型競争社会を実現しない限り、フランスの混沌とした八方塞の現実社会を打破できないのではないかとも思っていました。

住んでいて感じたのは、”フランスは変な国だなあ”ということでした。国民は、あれが悪いこれが悪いといつも政府に対して不満ばかり言ってるくせに、いざ政府がその不満に対しての解決策を出すと、ことごとく”反対!”を声高々に唱えるのです。そして現実には何も変わらないまま。

サルコジ氏の強力な行動力が、これからどのようにこの気難しい国民を動かしていくのか、賞賛を得るか、混乱を誘発するのか、見守っていきたいと思います。

Sarkozychirac_1 さて、サルコジに対しては忘れられない漫画があります。2年ほど前のル・モンドに掲載された、Jean Plantuという有名な風刺漫画家が描いたものです。切抜きを持っていないか家のファイル探したのですが見つからず、ネットで探し、ようやく左のような小さなのを見つけました。

分かりにくくて申し訳ないのですが、説明しますと、左のフランス国旗を頭に掲げた人がシラク大統領で、その赤いマントの先にいるアラブ人の頭巾を被った小柄な人物がサルコジです。背後のサルコジがシラクのマントに乗り、進めないようにし、さらにシラクにナイフを突き刺した為、シラクが苦しんでいる、という場面です。

この風刺漫画は、2年前、シラク大統領がトルコのEU加盟に賛成したのに対して、サルコジは反対態度を表明した時のものです。

結構、過激でしょう?クレームがきてもおかしくないような表現です。この頃はル・モンドで頻繁に、アラブ系の帽子を被ったサルコジがシラクにナイフを突き刺し血がでている、という漫画を見ました。

当然Sarkozy_et_chirac これは、かつてシラクべったりだったサルコジが、前々回の大統領選挙で、シラクを裏切りエドワード・バラドゥール氏側についた裏切りを暗示しているものと思っていました。

ところが、前に教わっていたフランス人の先生に、「どうして漫画の中でサルコジがアラブ系の帽子を被っているのか」を尋ねたところ、面白い回答が帰ってきたのです。

単にその時の話題がトルコだから、二人の服装がアラブ系に描かれているだけではなく、当時フランスで読まれていた、アラブ社会を題材にした漫画の登場人物を暗示していることを教えてくれたのです。

その漫画のサルコジに対応する人物は、イスラム教国王(カリフ)の座を虎視眈々と狙っているある部下で、いろいろな策略を計画するのですが、すべてうまく行かないのです。

それを、当時大統領の座を狙っていたサルコジとシラク大統領になぞらえていたのです。先生の説明で、ようやくフランス人が漫画を見て理解できる内容を知ることができました。

言葉巧みで、すぐに実行に移すサルコジ。彼がヌイイ市長時代、市役所に結婚の為訪れた新婦に一目ぼれ、すぐにくどき、自分の奥さんにしてしまったエピソードから分かるように、かなり強引。

これから、サルコジ大統領はどういう舵取りをするのでしょう?

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2007年3月10日 (土)

ブールデル美術館の猫 le chat qui se trouve dans le musee Bourdelle

私の尊敬している花耀亭さんのブログに昼寝をしている可愛い猫ちゃんの写真が載っていて、思わず、自分の撮った写真を思い出したので、急遽アップすることにしました。

パリのモンパルナス駅近くに、彫刻家Émile-Antoine Bourdelle(1861-1929)の元住居兼アトリエを改修して出来たブールデル美術館(ホームページはこちら)がありますが、そこで撮った猫ちゃんです。

Bourdelle4_1  よーく馬の足元を見ると、何か丸まっているものが・・・

 Bourdelle5_2

 この日は、ぽかぽかと暖かい春の日差しいっぱいの日で、私も横でまるくなりたくなりました。

実は、この美術館、入り口を入ると、誰もいない広いエントランスにも猫チャンが出迎えてくれていたのです。

Bourdelle6_1   どうもここの係員の方は、猫ちゃんがお好きのようですね。

男性的な重量感あふれるブールデルの彫刻は、はやり長い間助手を務めていたロダンの影響を感じずにはいられません。本人は、いやだったかもしれませんが・・・

Bourdelle3 あまり人に知られていないかもしれないこの美術館、結構広いのです。奥へ奥へと展示室が広がっていて、彼の大きな作品から、力を注いだと思われる友人のベートーベンの頭部まで、結構楽しめます。

アトリエに向かう中庭がまた素敵です。ここでは、なぜか、パリの騒がしさから解放されて、ゆっくりと時間が流れているように感じます。

2階にも登ってみて、彼の彫刻を背後に、ゆっくりと時間を過ごしてみてください。

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2007年1月28日 (日)

ピエール神父の逝去 La mort de l'Abbé Pierre

Abbe_pierre_1 1月22日の早朝、ピエール神父が肺炎のため亡くなった。94歳。テレビ、新聞で大きく取り上げられており、シラク大統領が国葬に決定し、26日の午前11時からパリのノートル・ダムで葬儀が行われた。

franc2で生中継をしていたので、最後のほうを少しだけ見たのだが、あの広い教会が人で埋まり、教会前の広場には液晶の大画面が設置され、中に入れない人も中の様子が見られるようになっていた。実に荘厳だった。

少し普通と異なるのは、シラク大統領を初め、ド・ヴィルパン首相、サルコジ内相、その他の閣僚、有名俳優やいろんな組合の人々そして大勢の一般人と共に、一見してSDF(Sans Domicil Fixe ホームレスの人のこと)と思われる人も多く参加していたことだ。これは、ピエール神父の望む事だっただろう。

ピエール神父は、パリの本屋に行くと必ずこの人の写真が表紙になっている本を目にすることが出来る。ほとんど全フランス国民に愛され尊敬された人だと言えるだろう。

という私も、パリに居た時初めて知った。通っていた学校の近くには宗教関係の小物や本を売る店が多くあり、帰り道によくぶらぶらと覗いていた。どの店に行っても「Abbé Pierre」(ピエール神父)と書かれた表紙の本が、何種類も店頭に並んでいたので、店の人に尋ねてみた。

「この人は誰ですか?」「この方はとても立派な方で、弱い人の為にずーっと戦ってくれている人なの。フランス人ならみんな知っているわよ」

この人の詳細を、http://fr.wikipedia.org/wiki/Abbé_Pierre で読み、驚いた。彼は、まさしく「戦いの人生」を歩んだ人だった。テレビでも Sa vie est il combat. (彼の人生は戦いだ)とアナウンサーが言っていた。

本名アンリ・グルエス(Henri Groués)は、1912年8月5日、リヨン(繊維、織物の街として有名)で元絹の商売をしていた裕福で敬虔なブルジョアの家庭に生まれたが、16歳ですでに神の道に入ろうと決心している。

19歳(1931年)、カプチン会(フランシスコ会の)で請願を立て、彼の所有財産すべてを慈善団体に寄付した。その時、ピエールという名が与えられ、その名前がずーっと使われることになる。26歳(1938年)で司祭。

彼の逸話として、”第二次大戦時代に2人のユダヤ人を匿い、スイスへ逃がした”、という話があるが、これは、確証がないとこのwikipédiaには書かれている。しかし、ド・ゴール夫妻をスイスに逃がし、抗独レジスタンス組織maquisの創設にも参加している。ドイツ軍に捕まり、釈放され、スペインを通ってアルジェリアへ行き、レジスタンス運動に加わる。途中、従軍司祭にもなっている。

Abbe_pierre_2 終戦後、彼はド・ゴール派からの勧めにより、MRP(人民共和派1944から65の政党)の国会議員(1946-51)にもなるが、政界の立場や政党社会を非難し、議員を辞職する。その後、アルベール・カミュやアンドレ・ジイドと共に急激な国際的エゴイズムの台頭に反対し、アメリカ大使館前で自分のパスポートを破り捨てた。(おお、なんと激しい行動!)

これからの彼の活動が目覚しい。1949年(37歳)の時、恵まれない人々、特に家の路上生活者を助ける、非宗教団体エマウス(Emmaüs 1971年国際化)を創設する。仕事は、廃品回収、それを修理し販売し、弱者の為に家を建てることでして、路上生活者自身が行うだけでなく、ボランティアも参加できるようになっている。(こちらに日本語でその案内が書かれてます。)

ピエール神父が有名になったのは、特に寒い冬の日1954年2月1日のラジオ・リュクサンブルグ(後RTL)で放送されたメッセージからだった。

《Mes amis, au secours... Une femme vient de mourir gelée, cette nuit à trois heures, sur le trottoir du boulevard Sébastopol, serrant sur elle le papier par lequel, avant hier, on l'avait expulsée... Chaque nuit, ils sont plus de deux mille recroquevillés sous le gel, sans toit, sans pain, plus d'un presque nu. Devant l'horreur, les cités d'urgence, ce n'est même plus assez urgent ! 》

「友よ、助けを求む。この深夜3時、セバストポール大通りの歩道で一人の女性が亡くなった、前日アパートから強勢退去させられた彼女は、手に退去通知の紙を握り締めていた・・・。毎晩、2000人以上の人が屋根も無くパンも無くほとんど裸同然で冷たい道路の上で丸まっている。こういう痛ましさを前にして、街は非常に緊急を要する。」

《La météo annonce un mois de gelées terribles. Tant que dure l'hiver, que ces centres subsistent, devant leurs frères mourant de misère, une seule opinion doit exister entre hommes : la volonté de rendre impossible que cela dure. Je vous prie, aimons-nous assez tout de suite pour faire cela. Que tant de douleur nous ait rendu cette chose merveilleuse : l'âme commune de la France. Merci ! Chacun de nous peut venir en aide aux « sans abri ». Il nous faut pour ce soir, et au plus tard pour demain : cinq mille couvertures, trois cents grandes tentes américaines, deux cents poêles catalytiques......Grâce à vous, aucun homme, aucun gosse ne couchera ce soir sur l'asphalte ou sur les quais de Paris. Merci ! 》

「天気予報では、ひどい寒さの一ヶ月だと言っている。厳しい冬、貧困のために死にそうな兄弟達を前に、たった一つだけ我々の間に存在している意見があるはずだ。それは、不可能と思える堅固な善意だ(?)。お願いです。それをすぐに実行して頂きたい。多くの痛みが私達に奇跡を起こさせますように。フランスの共通精神よ、ありがとう!我々の誰でもが、住宅の無い人を助けることができるのです。今晩、明日でもいいです。5000の毛布、300の大きなテント、200のコンロ(ストーブ?)をお願いします。・・・(以下集合場所などが説明される) あなた方のおかげで、今晩どの大人も、どんな子供もパリの川岸やアスファルトの上で寝ることが無いでしょう。ありがとう」

Abbe_pierre_19540203_la_place_du_pantheo 翌日、報道では「善意の蜂起(l'insurrection de la bonté)」とタイトルを付けた。なんとこの呼びかけによって、多くのボランティアや様々な物質以外に、50億フラン(内、200万フランはチャーリー・チャプリンから)という当時にしては途方も無い金額が集まったのだ。社会現象を起こしたといってもいい。

その後の神父の働きかけにより、政府が緊急に12000個の簡易住宅を建設したり、冬のある一定期間は、アパートの所有者は借家人を追い出すこと禁止の法律まで出来ている。

右の写真は、1954年2月3日、多くのボランティアが集まっているところ。

その後の彼は、家の無い人や弱者を助け続けるだけでなく、カトリック教徒の教義にまで反対(聖職者も結婚可能にすべきだ、とか、エイズの爆発防止にコンドームは必要だと主張)したり、常に身近な人間の立場に立った考え方で、体を張って意欲的に戦ってきた。

エマウスは今や世界40数カ国、500の組織が存在している。

印象的な彼の言葉も少しここに書いてみる。

  • « Sur ma tombe, à la place de fleurs et de couronnes, apportez-moi les listes de milliers de familles, de milliers de petits enfants auxquels vous aurez pu donner les clés d’un vrai logement. »   (私もお墓の前には、花束や花輪のかわりに、あなたが本当の家の鍵を与えることができるであろう幾千の家族や子供達の名前のリストを持ってきてください。)
  • « Les hommes politiques ne connaissent la misère que par les statistiques. On ne pleure pas devant les chiffres. »  (政治家は統計でしか貧困を知らない。人は数値を前にして泣く事は無い。)
  • « L’enfer, c’est les autres, écrivait Sartre. Je suis intimement convaincu du contraire. L’enfer, c’est soi-même coupé des autres.»  (”地獄、それは他人だ”とサルトルは書いた。私は、心の底からその逆を確信している。地獄、それは他人から切り離されたその人自身だ)
  • Abbe_pierre_4 左の漫画は、フランスの新聞に掲載されていたもの。いろんな箇所を探していて、ピエール神父の漫画ばかりを集めたページを見つけ保存したのだが、その元のページを失念した。

    内容は、「おいで、こちらでは快適に住めるよ」と神が言うと、天に昇ろうとしているピエール神父は、「むしろ、下の世界の人々に家々をお与えください。」 まさしくピエール神父の言いそうな言葉。

    このようなのもあった。Abbepierre_3 シラク大統領、サルコジ内相、ロワイヤル女史などによって運ばれている中で、ピエール神父が「自分がこんなに重いとは思わなかった・・・」と言っている。当然、この”重い”という言葉は2重の意味を持っている。

    ピエール神父、ありがとう!貴方の活動を知り、信念と共に行動することの大切さを知りました。私も何が出来るか考えてみます。

    ここでお断りですが、すべてCojicoが訳したので意訳・誤訳があるかと思いますが、大体の意味を感じ取っていただければあり難いです。写真はすべてクリックで大きくなります。

    ピエール神父の葬儀時の写真(14枚)はこちら 、 活動している写真(10枚)はこちら で見られます。

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    2006年12月13日 (水)

    やっと終わった・・・finalement le deuxieme semestre est fini.

    Du_petit_palais

    (新しくなったプチパレより望む。改装前はゴーストが住んでいてもおかしくないような暗さだったが、その面影は全くない。しかし、あの重厚感が失われたのは少し寂しい。多数の立派な家具も展示されていたのに、見当たらない。どこに行ったのだろう?)

    やっと、この秋学期の授業が終わった・・・フランス語もイタリア語も。

    ものすごい開放感がある。毎学期同じ事の繰り返しで、また1月からみっちりとした授業が始まるのだが、暫しのこの重圧感の無い時間はほんとうにありがたい。

    今のフランス語は、ル・モンドを読む授業で、毎回フランスの様々な問題を提示した新聞記事を読み、A4の紙に出された9問ほどの問題に自分なりの答えを書いて授業を受ける。そして、授業の最後にそれを提出すると丁寧に添削してくれ、次回に返してくれるというシステムになっている。

    みんな熱心に新聞を読み、質問をし、問題を解いてくる。結構歯ごたえがあっておもしろい。理解できた!これでばっちり!と思って授業に出席すると、だいたい痛い目にあう。先生は、現実に存在する、新聞には書かれていない別の面を展開してくれるのだ。

    ああっ!そうなのか・・・長い歴史を持ち、多くの移民を受け入れ、日本では考えられないような問題を抱えているフランスのいろんな面がまざまざと目の前に広がっていく。

    最後の授業内容は、国家公務員が退職後、フランスの海外県に住むと、たとえそこで働いたことが無くても、水増しした年金を受け取ることができるという法律の問題だった。行政による審査が無いために、実際は住んでいなくても、申請だけをして、郵便ポストを現地に置けば、それで受け取れる仕組みになっているそうだ。

    したがって、年々倍増しているこの違法受益法律を修正しようと動いている上院議員がいるのだが、なかなか思うように進展しない。獲得した特権は失いたくないのだ。

    年金だけでなく、現在働いている役人も海外県で働くと、給料がフランス本土内よりもなんと35%から83%アップまであるという。地方公共団体も大変だ。

    フランスは役人天国。国民の半数は役人という。年金も、役人は最後の年の給料の75%を受け取ることができるが、民間会社出身の年金は、最後の何年かの平均の50%と差が有る・・・。

    ・・・という具合に勉強して行く。様々な政治用語、法律用語なども出てくるので、ちょっと特殊かもしれないが、新聞の見方が変わってきたように感じる。これからは大統領選も有り、サルコジやセゴレーヌ・ロワイヤルなどの話も増えてくるだろう。今からとても楽しみ。

    来期は、フランス語の授業を増やそうと思っているので、また、厳しい1週間が繰り返されることになり、このブログもなかなか更新できないような気がする。イタリア語もなおざりになりそうだし・・・それにしても、どうしてこんなに、忙しいのだろう。時間が早く過ぎてしまう。

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    2006年11月 1日 (水)

    首相の娘 la fille du premier ministre

    今朝、あるJRの駅前で、今日創刊の「EXPRESS」という新聞の試読版をもらった。紙面はB4ぐらいで、字も大きく読みやすい。一面がブッシュについてでして、国内問題でない話題が一面という編集の仕方に大変興味を持った。

    その中に、くだらないけれど、私には面白い記事を見つけた。題は「美しいモデルの父親は・・・」で、雑誌ジバンシーの表紙に金髪の美しい女性の写真が載っている。

    なんとその女性、フランスのド・ヴィルパン首相の長女でして、180センチ55キロという抜群のスタイルの20歳。

    今回彼女は、本名を隠してジバンシーのオーディションを受け、見事新発売香水「天使と悪魔」のポスターモデルを獲得したのだそうだ。

    どうもフランスの雑誌「パリ・マッチ」がいつものように暴露したらしい。

    現在、彼女はニューヨークで40平方メートルのアパートにモデル仲間5人と共同生活していて、モデルになることを反対した両親からの支援はまったくないのだとか。

    親は、阻止する為に「あらゆることをした」のだそうで、日本の小泉前首相とかなり対応は異なるようだ。

    ちょっと内容を読んでみたい気もする。来週学校へいったら、図書室を覗いてみようかな。

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    2006年10月20日 (金)

    フランスの絵巻物!バイユーのタペストリー La tapisserie de Bayeux

    Tapi48   

    「伴大納言絵巻」を見た後、ふと思い出したのがこの有名なフランスにあるバイユーのタペストリー。

    正確に言うと、縦糸と横糸で織り込む”タペストリー”ではなく、これは全部亜麻の布地にカラフルな毛糸で施された刺繍。高さ50センチ、長さは70メートルにも渡って、ノルマンディー公ギョーム(後に”征服王ウィリア”と呼ばれる)によるイングランド制服の物語が、登場人物1500人、馬、動物、船、城、戦争などが鮮やかに描かれている。

    Bayeuxmap_1このバイユーは、この地図の通りパリから北西250キロ、車でジャンヌ・ダルクの火あぶりされた街ルーアンまでの距離の倍程走った所にある。

    作成は、1066年10月14日、ヘイスティングの戦いで勝った直後からで、10年後に完成された。「伴大納言の絵巻」より100年早いことになる。作成者は、ノルマンディー公妃(イングランド王妃)マチルドとその側女と言われ、この作品は、マチルド王妃のタペストリー(Tapisserie de la Reine Mathilde)とも呼ばれている。

    物語は、イングランドの王エドワードの王位継承に伴う事件である。

    高齢のエドワード王は子供がいなかったため、ノルマンディー公ウィリアムを彼の継承者と決め、寵臣のハロルド(王の后の兄)に、その意図をウィリアムに伝えるように命令するところから始まる。

    Tapi1

    中央がエドワード王(屋根の上に ”EDWARD REX”と文字が刺繍されている)で、右がノルマンディーへ出向くハロルド(”UBI: hAROLD DUX:”の文字)。馬に乗っているハロルドの背中側がくりぬかれ、別の布が継ぎ足されているのが見える。

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    ”UBI hAROLD SACRAMENTIUM FECIT WILLEL DUCI”(ここで、ハロルドがウイリアム公に誓いを立てる)

    ハロルドがウイリアム公に会うまでに、荒れた海峡を渡った為いろいろ思いも寄らぬ事件が起こり、23の場面が描かれる。やっと会え、ハロルドは2つの聖遺物の箱の前で、「ウイリアムを正当な後継者と認め、政治面でも物質面でも支援すること」を誓ったのだった。(ところが、ハロルドが後でこの誓いを破ったことで事件が起こる。)

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    ”hIC PORTATUR CORPUS EADWARDI REGIS AD ECCLESIAM S(AN)C(T)I PETRI AP(OSTO)LI”(ここで、エドワード王の遺体はセント・ピーター教会に運ばれる)

    上図の左3分の2はお葬式の場面、右がエドワード王臨終の場面である。言い忘れていたが、日本の絵巻の場合は右から左に向かって描かれているが、ヨーロッパの場合は普通、左から右に向かって描かれる。

    だからこの場面は、前後が入れ替わっていることになる。教会の場面の刺繍をしている時に、はやり臨終の場面を入れておこうと、後で付け足したのかもしれない。

    なんとこの後、この臨終に際したハロルドが、自分を後継者に指名したと主張し、彼が王に即位してしまうのだ。

    Tapi38

    これに怒ったウイリアムは急いで船を建造させ、合計約3000隻、馬も引きつれ、5万の騎士と兵士といういう大軍隊でイングランドに攻め入る。

    Tapi51

    そして戦いは始まった。左がウイリアム軍、右がハロルド軍。当時イングランド人は、戦闘にめったに馬を使わなかったのだそうだ。下のほうには、倒れた人がたくさんいる。物語は、イングランド軍が逃走している場面で終わっている。

    歴史的には、1066年1月5日エドワード王死去。1月6日ハロルド戴冠。9月ウイリアム軍集結。10月14日へースティングの戦いでハロルドが死亡。10月21日ドーバーの降伏、10月29日カンタベリーの降伏。12月25日ウエストーミンスターでウイリアム戴冠、と続く。

    なんと手の込んだ刺繍!王の服の襞、馬の鬣まで丁寧に色を変えて縫っている。

    Tapisall_1  実際は、次のような暗い部屋に展示されている。これを見るために先ず訪問者がすることは、パネル形式になっているこの場面の写真と説明を読まなければならない。

    私はこのとき予備知識が全然無かったので、先ずこの長さに驚き、またせっせとこの蛇のようにうねうねと置かれたパネルを読もう(英語とフランス語)としたが、最初から様々な事件が起こり、話がごちゃごちゃになって長く続かず疲れてしまった。この街のサイトを読むと、今ではなんと11言語のオーディオガイドがあるのだそうだ。

    また、このタペストリーを全部ご覧になりたい方、物語も詳しく知りたい方は、なんとこの70メートルもの作品を複製されたグループのサイトをご覧になればよいと思う。

    Bayeuxphoto_3 なお、街はこのような感じ。4月1日だったが、とても寒く、空はノルマンディらしくはっきりしない。北フランスの春はなかなか来てくれない。

       

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