カテゴリー「東ヨーロッパ Europe orientale」の4件の記事

2009年3月 8日 (日)

知らなかった《聖地アトス》ギリシャ

Atos1_map 先週の月曜日(3月2日の夜)、NHK・BShiでギリシャでの世界遺産の一つ「聖地アトス」という半島の特集を放送していました。

全然知らない地名でしたし、修道士達の、中世を思い起こさせるような厳しい生活を守り続けている一途な姿に惹きつけられ、2時間テレビの前に座り続けてしまいました。ほんと、驚きました!未だに、あのような世界があったとは・・・・

ギリシャ北東部の細長い半島の先端にあるアトス山は2033メートル、平地も無く山道ばかりの厳しい環境のその半島では、古くは10世紀から、かつては40、現在では20の修道院が存続しており、2000名程の修道士が暮らしているのだそうです。彼らは、1000年以上前からギリシャ正教の戒律を守り続け、儀式を行い、厳しい自給自足の生活を送っているのです。そこは、全く世俗から隔離された世界で、ギリシャ政府からも唯一自治を認められ、異なる時間を過ごしているのだそうです。

Atos2_map 黒い修道服は、世俗を捨てた証、そして、腰をしっかり締め付けている黒いベルトは、貞節の証。

女人禁制のこの聖地は、動物でもメスは禁止されており、鼠を捕ってくれる猫だけは特別に許可されているのだそうです。(ネット情報によりますと、この地に女性が入ると、最大で禁固2年の罪なのだそうです。)

大きな修道院は、船で訪れる巡礼者(男性のみ)を受け入れ、食事、ミサなどを共に行って、現金収入を得ることができます。

ところがここには、修道院から独立し、個別に小さな家で生活をしている修道士もいて、自分達だけで自給自足の生活を送る人たちもいるのです。現金収入は1個50円くらいの小さな十字架を作り売るぐらいなので、新しい洋服は購入できず、継ぎ接ぎだらけ。しかも、あまりの孤独に耐えかねる時は、なんと井戸に向かって聖歌を歌うのだそうですよ。

洞窟で暮らしていた修道僧もいたのだそうです。まるで聖書の世界ですね。一人荒野で修行した聖ヨハネか、またまた、一人砂漠で隠者として著作と瞑想にふけった聖ヒエロニムスか・・・

確かにフランスでも、修道院生活は厳しいと聞きましたが、水も電気も通っているし、売店の女性と話している場面(セナンク修道院で見ました)もあり、世俗とも十分に繋がっています。しかし、ここアトスは全くの隔離された孤独な修道院生活。

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その様子は、驚くほどの禁欲的でした。現世は仮の世で、死後に天国で暮らすことのみを望み、天国へ行くには、弱い自己に打ち勝ち、欲を捨て、祈りを続けなければならないのです。

朝4時半起床、すぐに3時間の重要な儀式、聖体拝礼(でしたっけ?)を執り行う。8時半、朝食、その後は6時間の労働。黒い修道服のままで農作業や建物の修理も行う。

その後、また祈り、夕食は一人が聖書を読んでいる間に、沈黙の中で食事を終えなければならない。食後、個人の部屋に戻るけれど、私用品は一切無く、静寂の中、イコンを置いている自分の机にすわり、神との対話を行う・・・。

少し歴史的な話をしますと、8世紀の偶像廃棄運動で、多くの板に描かれたイコンは壊されました。テレビでも、見事に縦に割れたイコンが映っていましたが、面白いことに《イコンは、神が描いたもので、偶像ではない》という結論に達し、それ以降は、立体的な像は作られないものの、イコンは描かれていったのだそうです。

13世紀始めには、十字軍によって、コンスタンチノープル陥落。そして、15世紀の半ば、オスマントルコにより東ローマ帝国が滅亡。後ろ盾を失った修道院は、その宗教精神を守るために重税に甘んずる道を選びます。確か、ブルガリアの《リラの僧院》も同じような苦しみを味わっていましたね。その後、ロシアのロマノフ王朝からの援助で息を吹き返したのも束の間、ロシア革命により、まだ援助を失ったのです。

まったく、厳しい歴史の積み重ねです。しかし、宗教は強い!最近は、EUの援助を受け、修復工事なども可能になっているのですが、未だにカトリックへの不信は強いのだそうです。これだけの長い歴史を考えると、そういう姿勢もうなづけますね。

ギリシャは新婚旅行で訪れた国。紀元前の遺跡のほかロードス島も行き、それで満足していたのですが、こういうギリシャ正教の世界には気が付きませんでした。この番組を見て、北の方にあるギリシャ正教の修道院にも興味が沸いてしまいました。

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2008年5月21日 (水)

ブルガリアの小さな世界遺産 ボヤナ教会 Boyana

ちょっと気分を変えて、久しぶりにブルガリアの教会を紹介しましょう。(といっても、詳しいことは知らないのですが、)立派なリラの僧院とは全く異なる、ソフィア近くにあるもうひとつの世界文化遺産、小さなボヤナ教会です。

訪れたのは2001年5月。パリから2泊3日で訪問した最後の日、午後の便でパリに帰る予定だったので、チェックアウトした後ホテルに荷物を預け、ボヤナ教会へ行くことにしました。
手には地図も案内書もなく、情報としては”ソフィアの南8キロにある世界遺産の教会、内部のフレスコ画がすばらしい”ということだけ。ホテルに置かれていた現地ツアーのパンフレットにも”Boyana”という名前さえ載っていない。よほどマイナーな世界遺産らしい。

先ほど見たウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%A4%E3%83%8A%E6%95%99%E4%BC%9Aボヤナ教会)によりますと、長い間修復工事をしており、2000年から一般公開を開始したらしく、私たちが行ったのはその直後だったので、まだ宣伝も満足にできていなかったのかもしれません。

タクシーを呼んでもらって、おまけに行き先もホテルの人に伝えてもらいました。そのほうが確実に伝わるし、運転手もいい加減なことはできないはず、と思って・・・。
タクシーはどんどん走り、20分ほどであまり人気のない山の途中のようなところで止まりました。少し開けた場所とはいえ山の坂道のような場所で、あたりは人影なく店も何もありません。

間違えられては困ると思い、「Where is the Boyana Church?」と聞くと、運転手さんは黙って、お寺の門のような木戸が見える小さな門を指差しました。へっ?あれが教会の入り口?今までみてきた教会と環境があまりにも違うので、えっ、ほんと?と不安を抱いたまま車を降りた次第です。

おそるおそる門を入ると、中は木々がきれいに整えられ小道が造られていたのでほっ。右手にパッとしない小さな建物を見つけたのだけれど、窓の向こうには誰もいないし、案内書などの用紙も何も置いていないので、切符売り場なのかそうでないのか皆目解らない・・・ほんとにここなのかしらと不安ばかり。

”Hallow !, Hallow !, Dose anybody there?”と何度か声をかけ、しばらく待つ事に。山の中なので音は何もしない。気持ちよい太陽の光が緑の間から差し込んでいるだけ。突然、奥からのっそりと男の人が出てきた。小さい紙に何かを書き込み、「向こうに教会があるから、そこで待っていてください。後から係りの人が行きます。」とそっけなく言う。よく解らないけれど、指差された方向へ小道を歩き出す主人と私。周りは気持ちの良い緑の木々に囲まれている。しばらく歩くと、少し広くなったところに・・・あった!

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えっ?と思うほど小さい。いったいなぜこれが世界遺産なのだろう・・・上の写真は横から撮ったもの。下の平面図の下側から撮ったもの。入り口は、左の蔦に覆われている部分を曲がったところにある。教会の間口幅は、7,8メートルほどしかないのではないか。

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左の平面図は、後ほど入った博物館で購入したパンフレットに書かれていたもの。壁の色を変えているように、この教会は小さいながらも右から順に3つの時代につぎつぎと増築されてきたという。

上の写真で、壁の色の違いを見てください。右端のレンガだけでできている一番色の濃い部分、ここが平面図の壁の黒い部分にあたり、1048年、王家の礼拝堂として建築された聖ニコラウス聖堂といわれる所です。当時は壁画で覆われていたそうですが、今では、後陣の下の部分と、北側の壁にのみ見ることができるそうです。

2階のある部分は、レンガの赤みが少し薄いですよね。よく見ると石とレンガからできています。ここが平面図の中央部にあたり、1259年、敬虔なブルガリア王朝時代、貴族セバスト・クラトル・カロヤン(Sebastokrator Kaloyan)によって建てられた聖カロヤン聖堂。この中央部分に描かれているフレスコ画が非常に貴重で有名な箇所に当たります。北壁に、1259年に2階建ての建物が追加された事が記されているそうです。

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この聖堂の1階は、拝廊(入り口・身廊)かつ寄進者家族の納体堂になっており、2階部分はドーム状で、13世紀の教会だったのだそうです。当時としては、構造上においても建築学的にも見事に調和のとれた建物であったのだそうです。

  蔦で隠れてる部分、左の写真ですと、一番奥の白い部分は、1845年、中央の聖堂の円蓋と円屋根の修復という名目で工事を始めたものの、反オスマン・トルコ政策として、キリスト教の復興また、ブルガリア国民主義の精神的な支えとして、この聖堂を建設したのだそうです。

購入したパンフレットによると、(英文なので不確かなのですが)中世時代、このヴィトシャ地域は王家や貴族たちの別荘地で、要塞化された宮廷のさまざまな建物が集まっていたのだそうです。特にこのボヤナ教会は、ブルガリア中世建築と壁画の最も優れた例の1つで、1979年ユネスコ世界遺産に指定されたのだそうです。

さて、入り口ですが・・・かがまなければ入れないような小さな木戸がひとつ。古くて厚くて重たい木製のドアには、銃弾や傷の跡が生々しく残っていました。そしてその鍵はめちゃめちゃに大きいのです。ガイドさんが突然私にその鍵を手渡し、”あなたが開けなさい”と言うのです。えっ?私がしていいの?といいながら・・・とにかく私がドアを開けました。

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中は、このとおり・・・一面のフレスコ画!と言いたい所なのですが、なんと照明が非常に乏しくて暗い上に、修理の為の足場が所狭しと組まれていて、ガイドさんが手持ちのライトを向けてくれなければよく見えないのです。

奥のほうから説明してくれるのですが、とにかく保存状態が悪く、中央部分の1259年に描かれたという有名なフレスコ画群も剥げている箇所が多くてよくわかりません。ここには、89場面240人の人物フレスコ画があるはず。説明される方向を見ると、立像があるのはなんとなく解るのですが、はっきりとはわからない、という感じ。(以下パンフレット、絵葉書より)

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左はかなりぼけていますが、光輪があるので聖人でしょう。右は、この聖堂の建立者であるカロヤン(Sebastocrator Kaloyan)と彼の妻ディシスラヴァ(Dessislava)。凛々しい男性とエレガントな女性ですね。服装も豪華そうです。はっきり見える絵もあります。

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背景の色が黒や青色ですが、これは13世紀のブルガリア絵画としては、とても珍しいのだそうです。
左の絵は、なんとなくビザンチンの雰囲気を持っていながら、キリストの動きが自然で柔らかい感じを受けます。右の絵は、左の絵の右上の男性(St. Joan)を拡大したものですが、ビザンチンのように金色の光輪を持っているものの顔の表現は影がくっきりと描かれ立体的ですし、髪も乱れているように描かれていて、非常に凛々しく見えます。

このようにこれらの絵の価値は、第2次ブルガリア王国で重要な文化的貢献をしたタルノヴォ派様式(よく知りませんが)の流れを汲むものだそうで、当時東方で主流だったビザンチン様式を破る写実的な描写が特徴なのだそうです。

Boyana_fres12_2 「最後の晩餐」(左)もよく見ると、顔を横に向けて話していたり、手の動きも見られ、結構にぎやかな感じです。下の「キリストの変容」のキリスト、顔の陰陽がはっきりとしていて、やさしいというより意志の強そうな印象を受けます。少しねじれているような体の向きもビザンチン様式から脱皮している事実をうかがい知ることができます。

きっと、この修復作業が終わると、美しいイエスや12使徒などに会えるでのしょうけれど、その作業も見たところ、当時はあまり進んでいるとは思えませんでした。しかし、次のサイトを見てびっくり!こんなだったとは・・・

ボヤナ教会のヴァーチャルツアーはすばらしいです!ぜひともご覧になってください。光が十分にあると、このように見えるのですね。あの当時では想像もできませんでした。今は、もっと見やすくなっていることでしょう。

ボヤナ教会の公式サイトには、歴史そして断面の構造図などが見られます。

Boyana_fres15_2 新しく建築されたらしいボヤナ教会博物館にも寄り、説明を受けました。当然ながら、私達以外誰も見当たらず寂しい雰囲気。薄暗い広間の片隅に売店らしき台もあるのですが、照明がなく、活気もなく、売る気も無いように見えました。買うために声を掛けるのも気が引ける様でしたが、長い間売れなくて色が剥げている薄い小さいパンフレットを3枚と小冊子を購入。

ここからは余談ですが、この見学では二人のアメリカ人男性と一緒でした。ガイドが来るのを教会の近くで待っていると、ガイドらしき人と2人の白人が近づいてきました。その一人はなんと前日、現地のリラ僧院ツアーでご一緒した、アメリカから来ている男性だったのです。思わず挨拶。

前日の話では、彼はアメリカ政府機関の方で、半年前からソフィアに来て、ブルガリア政府に民主化への援助指導を行っているとのことでした。ボヤナ教会に行ったことがあるかを伺ったところ、彼はその名前さえも知りませんでした。忙しくて観光らしいことは何もしていない、とのことでした。その時私たちがこの教会の存在を話したのですが、早速彼も友人をつれて訪れたのでしょう。

ブルガリアがEUに加盟したのが2007年1月、私たちがこのアメリカ人に会ったのは2001年5月。ブルガリアは、こうやって年月を重ねて民主化への道を研究し、アメリカの援助を受けながら、ようやく念願のEU加盟を果たしたのですね。あれから7年、今ではきっと、ソフィア市内の商業活動もかなり活発になったことでしょう。

今手元に、ブルガリアの修道院一覧の小冊子を持っています。中には
・The Rila monastery       ・The Bachkovo monastery
・The Troyan monastery    ・The Rozhen monastery
・The Ivanovo Rock monastery ・The Aladja Rock monastery
・The Zemen monastery  ・The Kremikovtsi monastrey
・The Transfiguration monastery  ・The Kilifarevo monastery
・The Dryanovo monastery  ・The Kapinovo monastery
・Two monasteries in the village of arbanassi St.Nikola and Holy Virgin
・The Cherepish monastery   ・The Shipka monastery

という名が連なっていて、それぞれの建物やフレスコ画が少しずつ載っているのですが、どの修道院も色鮮やかなフレスコ画が生き生きとしていて、非常に興味をそそられます。実際に見たいと思っても、きっと全部非常に不便な所にあるんでしょうね・・・

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2006年12月18日 (月)

ソフィアの聖ネデーリャ教会 St.Nedelya Church a Sofia in Bulgaria

Nedelyasoto2 今回は、ブルガリアの首都ソフィア市内の中心地スヴェタ・ネデーリャ広場にある、ブルガリア正教「聖ネデーリャ教会」について。

観光客がよく訪れる聖ペトカ地下教会(14世紀のトルコ支配時代に隠れて作られた小さな教会)とか旧共産党本部のある広い通りより、少し南にこの教会はあります。

この変わった円形のドーム屋根については、このソフィアにあるもう1つの大きな教会、アレクサンドル・ネフスキー教会も似たような屋根を持っているところを鑑みると、トルコ支配時代のモスクの影響があるのかもしれません。

それよりも、教会の周りがこんなにも多くの緑に覆われているのは、カトリックの教会でもあまり見ません。めずらしいかもしれませんね。

この教会はあまり古くなく、1878年ロシア・トルコ戦争でロシアが勝利したことにより、ブルガリアはオスマン・トルコから開放され、それを機にもとの木造の簡素な教会を修改築し、現在の教会の形になったそうです。

あまり観光客は来ないのか、この教会の売店で売られているものは、イコンとか正教徒の必需品のみのようで、この教会の説明が書かれた小冊子などは見受けられませんでした。ちょっと残念。

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内部は、ロシア正教のように、聖なる内陣は仕切られていて、聖職者だけしか入ることは出来ません。そしてその仕切りには、ずらりと幾人もの聖人がきらきらの金縁に飾られて全面を覆っているのです。堂内の壁という壁は全体、隙間なく絵が描かれていて、圧巻です。そんなに古くはないのだけれど、蝋燭のすすで堂内全体が黒ずんでいて暗く感じるのですが、それがまた重厚感を与え、神聖な気持ちになってしまいます。

Nedelyamur_2 この写真は、壁のフレスコ画なのですが、実は、この下半分に椅子に座っている私が映っていた為カットした結果、このように変になりました。

今なら、絶対に人より壁の絵を中心に写真を撮ると思うのですが、当時は、必ず家族を入れて撮る事を習慣にしていました。こんな時代が来るとは、思ってもいなかったもので・・・

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2006年10月15日 (日)

ブルガリアの美しい”リラの僧院” Rilski Manastir 

Rilazentai1_3 ブルガリアへの旅行は忘れられません。パリ滞在時の事、旅行会社に飛行機とホテルを頼んでいたのに、”飛行機は取れたけれど、ホテルが取れない”との返事に、私は急いで日本語の本屋へ飛んで行き、定価の2倍半ほどするガイドブックを買い、中に書かれていたホテルへ自分で電話をして、予約を取ったのです。

その電話も、当時はフランスからブルガリアへの電話回線数もあまり多くなかった為、何度電話をかけても、”回線がいっぱいだ”というメッセージが流れるだけで、なかなか通じない。大きいホテルは満室らしいので、新しいホテルをピックアップし、予約が取れたときは、ほんとうにうれしかった。

空港からの交通手段も、私達は普通、公共のバスや列車を使うことにしているのですが、このブルガリアはちょっと大変でした。文字の読めないもどかしさ。バスを降りた場所が地図上の何処か分からなかったのです。その後はタクシーに乗ってしまったのですが、ホテルに着いた時は、いつに無くほっとしたのを覚えています。

チェックインした後すぐ、翌日のリラの僧院へ行く地元ツアーの予約をコンシエルジュに依頼。ガイドは英語のこと。リラの僧院は、山奥にあるので、公共の交通手段ではとても能率よく動けないと思ったのです。

上の写真がリラの僧院全景。1983年ユネスコ世界文化遺産に登録されたブルガリア正教の総本山で、国内最大の修道院。

ソフィアから南120キロ、高速道路が無く、のどかな田園風景を中を片道2車線や1車線の道を行くために、3時間かかります。うねうねと山道を走っていたのでボーっとしていたら、突然”着きました”と言われ、上の写真の左下に車は止まりました。

Rilagaiken1_1   Rilagaiken3 

修道士イヴァン・リルスキー(876-946)が、ここで隠遁生活を始め、小さな寺院を建立。そこへ全国から信者達が集まり始め、14世紀には、ブルガリアの宗教と文化の中心地となっていったのだそうです。

14世紀末から約500年もの間、ブルガリアはオスマン・トルコの支配下にあり、キリスト教もブルガリア語も禁止されていたのですが、この修道院だけは、ブルガリア正教の総本山としてブルガリア人の誇りと信仰が許されていたのだそうです。

門の外から見ると、普通の白い近代的な建造物のようで、とても僧院には見えません。ところが門をくぐると、このように色鮮やかな聖母誕生教会(左の写真)が現れるのです。壁の縞模様や塔の丸さがなんとなくイスラム文化を感じさせます。教会を真ん中に、修道士の独居房の建物が、要塞のようにその回りを囲んでいます。

右の写真の少し高いどっしりとした建物は、フレリョの塔といって、地震や大火を生き延びた14世紀に建てられたもの。この中には、14世紀に描かれたフレスコ画「キリストの変容」が残っているそうです。

Rilanaibu1_2  Rilanaibu3_1  

教会の内部は、どこもかしこも隙間もないほど全面フレスコ画で覆われています。私はロシアでロシア正教の教会を見た事があるので、このような金箔に覆われた派手な装飾は初めてではないのですが、やはりそのものすごい凝りようには、驚嘆しました。これらの建物は、1833年に大火があったため、その後建造されたものです。
バロック調の正面のイコノスタシス(聖像塀:正教の教会の身廊と内陣を仕切る壁)は、木を彫り、金箔を施したもので、1839年から1842年にかけて、アタナセ・テラドゥールとその工房が、ビザンチン様式とブルガリア様式、バロックを調和させて作成したもの。

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聖堂外にある3面の回廊は、何時間いても飽きないほど、全面鮮やかな色のフレスコ画で覆われています。
このような派手な壁画を見たのは初めて。とてもすばらしい!修復時(1841年)に、ザハリ・ゾグラフという画家が無償で描いたのだそうです。

Rilatakara1_1  聖堂の左側に見える建物が歴史博物館になっていて、イコンや古い立派な聖書、教会の供物などが展示されています。ガイドさんが一番丁寧に説明してくださったのが、この写真の「ラファエロの十字架」でした。

高さ5~60センチの木製の十字架で、この小さな中に多くの聖書の場面と共に、なんと1500人もの人が彫り込まれているのです。

これはガラスのケースに入れられていて、360度から見られるのですが、裏にも別の場面が同じように細かく彫られていました。12年(1790~1802)の歳月をかけてこれを作った僧ラファエロは、完成したとき視力を失っていたそうです。

この細かさに感激し、フレリョの塔の1階の売店で、これと似た木製の同じように掘り込まれた(簡単なものですが)十字架を買ってしまいました。

以下に博物館の展示品を紹介します。左から、聖書ケースの表、大事な福音書の表紙、私がお土産に購入した十字架、ラファエロの十字架の一部分「キリストの降磔」

Rilabible2  Rilalivre1  Rilaomiyage1  Rilacroit2

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