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2011年1月の2件の記事

2011年1月24日 (月)

哲学 - 思考回路が違う

語学を勉強している脳の働き方と、数学の問題を解いている時のそれとは、明らかに異なる、と感じている。それは私と同じように、数学科を卒業しフランス語を学んでいる読書会の友人とも、同じ意見だ。

数学は、公理から始まり定理を証明し、その定理を使って様々な証明をしていくというような、全くの抽象概念の世界を築いている。それに比べて、言語を覚えるという行為は、そういう抽象世界など持たなくても、私のようにセンスがない人でも、ただ単に真面目に単語や文法を覚えていけば、ある程度まではどうにかなる。対象が言語と言う現実的な行動だからかもしれない。しかし、研究者が行う文学解析や心情分析となるとまた別で、、異なる努力やセンスが必要になると思うが、それでも数学を解いていくのとは、脳の働いている場所は違っているのではないだろうか。

ところが、まだ入門書2冊と、デカルトの《方法序説》をざーっと読んだ段階にすぎないのだけれど、《哲学》というのは、その二つとは全く異なった脳の回路を働かさなければいけない学問のようだと分かった。デカルトの印象が強かったのかもしれないが、それでも、すべてについて論証を要求される哲学は、言語と数学の抽象概念を組み合わせたような世界で、しかも考える対象が人間を取り巻くすべてということもあり、途方もない抽象概念の世界を築いている。どうも今までとは別の世界を、別の脳の働き方を勉強しなければ、哲学的思考はつかみきれないように思う。

Andre2 哲学とは一体どんなものか知りたくて、今度哲学のクラスを取ることにした。1月からの教材は、Andre Comte-Sponbilleというソルボンヌ大学の哲学教授が書かれた《Presentations de la philosophie》という本だ。日本語にも、《哲学は、こんなふうに》という本に訳されている。この教授は、過去にも何冊も分かりやすい哲学の入門書を書き、一般人へも哲学的思考を進めている有名な人物だそうだ。

序文だけ読んで、これこそまさに私の知りたいことだ!いえ、やりたいことだ!、と安易な喜びに浮かれたのだが、実際読み始めると、入門書であるにもかかわらず、書かれてある理論についていけず、言葉が頭上はるかその上にある雲の上を通り過ぎるような、理解不可能状態の経験を多々してしまった。

とりあえず、私が理解できた序文の一部を紹介しよう。訳は本から。

Philisopher, C'est penser par soi-meme; nul n'y parvient valablement qu'en s'appuyant d'abourd sur la pensee des autres, et specialement des  grands philopophes du passe. La philosophie n'est pas seulement une aventure ; elle est aussi un travail, qui ne va pas sans efforts, sans lectures, sans outils.

”哲学することとはそれは自分で考えることだ。だが、それをうまくやれるようになるには、まず他の人たちの、とりわけ過去の偉大な哲学者の思想に頼らざるをえない。哲学は、場当たりの思いつきにすぎないようなものではなく、様々な努力や読書や道具なしではやっていけない一つの作業でもあるのだ。”

Qu'est-ce que la philosophie? ... La philosophie n'est pas une science, ni meme une connaissance ; ce n'est pas un savoir de plus : c'est une reflexion sur les savoirs disponibles. C'est pourquoi on ne peut apprendre la philosophie, disait Kant : on ne peut qu'apprendre a philosopher.  Comment?  En philosophant soi-meme :

”哲学とは何か? 哲学は科学ではないし、認識でもない。またもうひとつおまけに付け加わってくる知なのではなく、入手可能なもろもろの知についての考察なのである。だからこそ、カントの言ったように、哲学を学ぶことはできないのであり、学ぶことが出来るのは、哲学することだけだということになる。どうやって学ぶのか?自ら哲学することによってである。”

...Personne ne peut philosopher a notre place.....Et certes on peut raisonner sans philosopher (par exemple dans les science), vivire sans philosopher (par exemple dans la betise ou la passion). Mais point, sans philosopher, penser sa vie et vivre sa pensee : puisque c'est la philosophie meme.

”・・・・誰も僕達に代わって哲学をすることなどできはしない。・・・むろん、哲学などしなくとも理性を働かせることはできるし(例えば科学において行われているように)、哲学などしなくとも生きていける(例えば愚鈍のままにあるいは情念のままに生きることはできる)。だが、哲学しなければ、自分がどう生きるかを考えることも、自分の考えた通りに生きることもできない。それこそが哲学なのだから。”

Qu'est-ce que la philosophie? Les reponses sont aussi nombreuses.....Pour ma part, j'ai un faible, depuis mes annees d'etudes, pour la reponse d'Epicure : 《La philosophie est une activite, qui, par des discours et des raisonnements, nous procure la vie heureuse.》... ...Le bonheur est le but ; la philosophie, le chemin. Bon voyage a tous!

”哲学とはなにか。その答えは、哲学者の数と同じくらいある。・・・僕に言わせてもらえれば、学生のころからエピクロスの解答が気に入っていた。《哲学とは、言葉と推論を用いて、我々に幸福な生活を与えてくれる一つの活動である。》・・・幸福が目標だとすれば、哲学とはそこへ至る道である。では、皆さん、どうかよい旅を。”

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Andre1 序文だけを読むと、哲学とは、過去の偉大な哲学者の考え方を勉強し、様々な本を読み、自分を、そして自分を取り囲む世界について、その真理を追究し、自分で考えを進めていく作業であり努力である。

その際、自分が如何に何も知らないのかを知ることになろう、限界を知りながら、徹底的に自分に問いかけ、歴史や人類について省察し、普遍的な真理を探究し、反省し、探求していくと、それが最後には、よりよく生きる術に行き着く、というわけである。

ふう~ん・・・哲学することが幸福に行きつくか否かはわからないけれど、確かに、社会の価値観に踊らされない、自分だけの価値や真理を持っていると、常に納得した選択ができ、満足できるだろう。

しかし私のような、もともと複雑な事を考えられない人間が、考えられるようになるのだろうか?年齢は関係ないといわれているが、この凝り固まった頭で理論を進めて行けるのだろうか?はなはだ疑問。スポンヴィル先生がおっしゃっているように、訓練すればできるようになるのだろうか?

ところで、本の中では、”真理”という言葉が頻出しているのだが、様々な見慣れない言葉が氾濫している中で、何故だかその意味が分からなくなってしまった。一体、人間が生きて行く上の、そして社会の真理とは、一体何なのだろう?

もう、頭の中は、ごちゃごちゃです。

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2011年1月19日 (水)

『琳派芸術』-光悦・宗達から江戸琳派 出光美術館

P1rinpa_geijyutu 今年は、酒井抱一生誕250年だそうです。そういえば本屋で、別冊太陽の彼の特集を見た時、思わず買おうと手に取ったのだけれど、パラパラっとめくるとよく目にしている絵ばかりだったので、迷いながら本を置いたことを思い出した。

この冬は、スリランカを旅行した。以前から見たいと思っていた洞窟寺院。すばらしかったが、その余韻に浸れないまま、またすぐフランス語の授業が始まってしまった。はやりある程度の緊張を強いられ、時間が取られる。

でも、フランス語ばかりに追われていてはいけないと思い、先週久しぶりに出光美術館へ行ってみた。はやり、琳派の絵はいいですね。デザインの良い作品は、何も考えずに楽しめる。

実は今、哲学の本(といっても入門書ばかり)を続けざまに読んでいるのだけれど、西洋哲学者達が、《美》にまで定義しようと努力しているのを知り、驚いた。まあ、言葉でいろいろ定義したがるのが哲学という学問らしいから仕方ないのだけれど、芸術の項目に関しては興ざめだった。

まあそれは置いておいて、今回の展示では、改めて宗達のセンスの良さと、光琳の屏風の画面構成の格好良さにほんとに感服した。

特に下の段にある単独のガラスケースに収まっていた俵谷宗達《扇面散貼付屏風》は、金銀泥地描かれた模様自体もセンスが良い上に、さらに、張られた金地の扇子の置き方も、これまた素晴らしく、ほれぼれと見てしまった。銀色がこんなに黒くなかったら、どんなに美しかっただろうと想像しながらも、これを見られただけでも、来た甲斐があったなと思ってしまった。

Senmenh2jpgSenmenh1

Senmenmigi

(上が左隻(繋がっていなくてすみません。)、下が右隻)

そして、私の好きなのは、宗達の下絵の上に光悦が書を書いているもの。今回展示されていたのは、《蓮下絵百人一首和歌巻断簡》というものだったが、図録を買わなかったので、例としてそれに似た《四季草花下絵古今集和歌巻》(畠山記念館所蔵)をアップしてみる。

Sitae_kokinwaka

いやー、素敵でしょう?草花の種類は、どんどん変化していきます。金銀泥の濃淡の変化の美しさ、上下のバランス、そして、その間を縫ってえがかれている文字の間隔、濃さ、形。そして、残る空間の美しさ。繊細なのか大胆なのか、さっぱりわからない。ただただ、宗達と光悦の才能に敬服。

次の部屋は、2章 金屏風の競演と題して、伝宗達や「伊年」印の金地に花が乱れ咲く華やかな屏風ばかり。次のは、伝宗達の「月に秋草図屏風」

Tikini_akikusa

「伊年」印 四季草花図屏風

Kusabana

3章は、光琳の絵画ばかり。これは、「太公望図屏風」。すべての線が太公望のおなかに集まっていて、いえ、逆にそこから広がっているように、画面構成が出来ている。全く人工的なのに不思議に意図的な構成を感じさせない、落ち着いた幻想的な世界が出来上がっている。人物の背景だけを見ると、全くの現代抽象絵画。面白い。

Taikoubou

次の《白楽天図屏風》は、以前(2004年)日本橋三越で開催された《日本の美 琳派展》で一番衝撃を受けた絵。なんという大胆な構図だろう。右は、唐から海を渡って日本を偵察に来た白楽天。左は、漁師のようにみえるけれど、実は、住吉明神の化身の浦の老人。詩歌について問答を交わしている場面だとか。

(丁度、学士会会報の中で、梅原猛氏が、この「白楽天」について述べている個所を、主人が見つけてくれた。二人の問答は、唐の詩と日本の和歌の優劣が比較されているそうで、唐の詩は、人間のみが作るものであるのに対し、和歌は、人間ばかりかウグイスやカエルも詠むもの(中世の古今和歌集の解釈で、盛んにこう語られていたという)であり、雨の音も風邪の音もまた和歌であり、当然、和歌の方が詩よりも上であるということになるという。)

Haku_l_rakuten Haku_r_rakuten

うまく2つの画像をくっつけられなくて残念。右の白楽天は、荒い波の中にいるにも関わらず、超然としていて、その威厳を保っている。波の描き方が本当に面白い。いくら西洋の抽象画家でも、このように美しく波を抽象化できる人は、そんなにいないだろう。右側の荒々しい波と、左側に広がっている緑色の静かな平面のバランスも面白い。光琳については、根津美術館の国宝《燕子花図》よりも、こちらの方が好きかな。

後期の展示(2月11日~3月21日)も必ず見に行こう!

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