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2010年12月26日 (日)

哲学? 不確かな目の認識能力

スーパーへ買い物に行こうと、マンションのエレベーターを待っていて、ふとある考えに行きついた。

何日か前、”生きていくうえで、これから何をすべきなのだろう?”と書いたけれど、その答として私が欲しいのは、”人のために尽くすべき”とか、”徳をなすべき”とか、などという高尚な事ではなくて、もっと根本的、基本的な事なのだ、という事を。

そしてそれは遺伝子のように、きっと人間としてあるべき基本的なこととして、潜在的に人間に機能としてプログラムされ、基本的に全員が行使できることなのではないか、と思い立った。だって、自分が持っているもの以上の事はできないんだもの、ね。

では、基本的な機能とは何か?自分をよく見てみると・・・まず、手足がある。これは当然、手足をよく動かして、働きなさい、ということだとはわかる。これは、ほんとに基本的な事。私も経験あるのだが、手足を骨折した場合、1か月ほど固定した後ギブスを取った時、その固定していた個所は、すぐには動かない。筋肉が動きを忘れ固まり、衰えてしまっている。張り合いのある人生を歩むには、身体を動かさなければならないことは明らか。

それから、頭。これはちょっと複雑で、もっと先で考えることにしよう。

次に、目。しっかり周りを見なさい、ということはわかる。しかし実際、これが難しい。私はどうも、観念で見てしまっているのだと、1か月ほど前改めて実感した。

Shiodome それは、スウェーデン人で彫塑家のビアンカと一緒に、汐留を歩いていた時のこと。目の前にはいくつかのビル、その間に歩道橋が手前から向こうに伸びていた。人がいなかったせいか、私は幾何学的に美しいと感じていた。ただそれだけの感覚しか持っていなかった。そう、直線的に上に伸びたビルと歩道橋・・・

ビアンカは、そのビルを見上げて、「なんてきれいなの!ほら、この反射!」と言ったのだ!えっ?反射?なんの事?私はなまじっかに「うん」と返事をしながら、もう一度ビルの方へ目を走らせた。わからない。もう一度、しっかり見た。ああ、これか!やっとわかった。平らなガラスの面を持ったビルの壁面に、空と反対側のビルがはっきりと映っていたのだ。確かに透明感があり、美しい。

右が、その時の写真。(その日は快晴で、空は透き通っていた。この写真は何故だか暗くて、明るさが感じられませんね。残念) 私は同じものを見ていながら、何も見ていなかった。頭の中でビルとはこういうもの、と景色を勝手に構築していたのだ。”見る”という単純な行為なのに、こんなにも把握できないとは!そして、見るという単純な行為に、こんなにも思考が左右するのもだとは、考えてもみなかった。心を空っぽにして、先入観を捨てて見なければ、実際の物が見えないのだ!

何も考えないで、あるがままを、初めてみるようにして見る、という行為。なんと簡単で難しいな作業なのだろう!特に私のような、ほんとは何も知らないのに、なんとなく”知ってるつもり”で行動している人に、こういう現象が多くみられるのではないだろうか。

良いことに気がついたな、と思う。”空(くう)”の大事さは、東洋思想でも言われていることではないか!これは、何か物事を判断するときにも、大事な気がする。先入観を持っていると、それにとらわれてしまうのが普通だ。ひょっとして、西洋哲学と東洋思想は、究極的には、手段は全く異なるけれど、生きる知恵として同様の事を伝えているのかもしれないと、ふと思った。

また、基本的な事を考えて行こう。下は、ビアンカと歩いた11月上旬の浜離宮。

Hanarikyu

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コメント

いいことを書いてくださいました!
私がやっているオイリュトミーでは、感覚器官(見る、聞く、味わう、嗅ぐ、触る、等々)をすごく鍛えなければならず、たとえば「見る」では、今回Cojicoさんが発見されたようなことが必要になります。それを生徒に何年も何年もいくら言っても通じなかったので、もうほんとにガックリきてしまっていました。私のブログも、私の雑記のようなふうにしていますが、じつはいろいろな観方のヒントを並べて紹介していたのです。でもそれを読み取ってくれる人は1~2人だったんですよ~・・・。でもCojicoさんのように聡明な方でもだなんて、ということは、あの生徒たちにはできなくて当然すぎるんだ、とわかりました。くっそ~と思っていたのが救われました!!

投稿: あむ | 2011年1月 5日 (水) 20時03分

あれれ、コメントを送信したのですが、反映されません。消えちゃったのかしら?
「観方」について、何年も生徒に言ってきたのに、全然通じなくって、ほんとうにガックリきていたのですが、気がつかないものなんだ、とわかりました。よいヒントをくださいました!!

投稿: あむ | 2011年1月 5日 (水) 20時13分

あむさん、

コメント、ほんとうにありがとうございます。ごめんなさいね、すぐに反映されなくて・・・実は、変なコメントも書かれるので、管理者の承認がされなければ、公開されないように変更したのです。

あむさんが専門とされている”オイリュトミー”というのは、五感を研ぎ澄ます必要がありそうですね。人として生きて行く上で何が大切かを、常に考えるように生きて行くと、選ぶべき道も自然に見えてきて、無意味な事がらはいつの間にか避けて行けそうな気がします。
ところが、私のような凡人(聡明とは程遠いです)には、それが難しい。雑念や常識や変なプライドに覆われ、いつの間にか本当の自分が見えなくなってしまっている・・・悲しい存在ですね。
これから自分探しの旅が必要な気がします。実はこの冬学期、たった6回だけなのですが、フランス語で哲学の授業を取りました。さて、私に理解できるかどうか、不安と興味が混ざって、少々楽しみでもあります。また、少しずつ書いてみますね。

投稿: Cojico | 2011年1月 5日 (水) 22時42分

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