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2008年10月 4日 (土)

知らなかった明治の西洋画家集団 五姓田一門

Goseda1 先日といっても9月上旬の事ですが(どうしてこんなに早く月日は経つのでしょう・・・)、久しぶりに横浜へ行ってきました。もちろん、横浜美術館で開催されている「源氏物語の1000年」を見に・・・ではなくて、私の本来の目的は、神奈川県立歴史博物館で開催されている「五姓田のすべて- 近代絵画への架け橋」(8月9日~9月28日 神奈川県立博物館)を見ることでした。

当然ながら、「源氏・・・」は見たのですが・・・うーん、なぜか心に響いこない・・・板橋区立美術館のように工夫すれば、いくらでもおもしろく、魅力的にできたはずだと思うのですが・・・。それとも、何も期待しなかった私が悪いのでしょうか?

Goseda_panph2 それより今日は、江戸の終わりから明治にかけて西洋画に貢献した五姓田一門の話をしてみたいと思います。
いつの頃からか五姓田芳柳という名まえを意識するようになりました。でも彼の情報が全然入らないため、明治という難しい時代に、どういう存在だったのか、どういう事をしたのか知るために行ってみることにしました。(左は、パンフレットの裏面です。クリックして大きくすると、五姓田一族の絵がよくわかります。)

久しぶりの馬車道、あたりは淡ーい明治の雰囲気!いいですえ!会場の神奈川県立歴史博物館を見てまたびっくり!趣ある建物です。入り口の階段には赤い絨毯がひかれていて、その先にあるドアは明治時代の木枠でできたもの。そこはかつての横浜正金銀行本店本館だったのです。廊下も両側の部屋の入り口も明治時代の雰囲気を漂わせ、素敵な空間です。

でも会場は、床は大理石で素敵だったものの、全体的に暗く、狭い場所にたくさん詰め込んだようで、おまけにすべてがガラスの向こうにある為、一昔前の展示場の雰囲気なのです。なんか、不思議な感覚・・・

明治初期、五姓田派という初代五姓田芳柳を中心にした家族とその弟子達の絵画集団が、横浜で活動していたのだそうです。この”活躍”というのは、江戸時代のように将軍お抱え絵師、というのではなく、日本の様子を絹に水彩画で描き(横浜絵という)、外国人に絵を売って生活をしていた、という意味なのです。大変革の最中、その混乱の中でもがんばって絵を描いていたグループがあったんですね。みんなが畳のあちらこちらで横になって描いている様子を見ると、生活は楽ではなかったとはいえ、そのひたむきさに感心しました。

Goseda_kazoku それだけではなく、宮内省から天皇家の肖像画の依頼を受けたりしているので、ある意味社会的成功も治めたといえるでしょう。

さらにこの五姓田派に注目する点は、当時油絵の画材は手に入りにくかった為、鉛筆画を基本としてその技法を、弟子達が日本の学校教育の場に広めていったことです。この五姓田派が、日本の絵画教育の基礎を築いたという事を今回始めて認識したしだいです。

家系図と弟子達の名まえを上げておきましょう。
                                   
初代五姓田芳柳|--- 友之助              
  (1827-1892)  |--- 義松(1855-1915) ワーグマンに入門、天皇の肖像画など
 横浜絵     |   技法を弟子達に伝達、1880-1889 フランス留学     
 肖像画      |   
          |   渡辺文三郎(1853-?) 義松に習う、高校の図画教師
          |    |
          |--- 勇子(幽香) 義松に習う
          |
          |   二世芳柳(1864-1943) 新潟県で図画教師、名誉賞
          |    |     明治神宮嘱託
          |--- 登女子

弟子:山本芳翠、平木政次、松原三五郎、土方力三郎、山内愚遷など。

Goseda_2sei2 この親族の一番出世は、なんといっても義松。才能もあったのでしょう、フランスに渡航した当初は、日本では描かれないような群集の絵を描いて、サロンにも入選しています。彼の上手さを象徴する「男裸体」(右)をアップしておきます。1881年の作なのですが、いやはや見事。

ところがなんとこの人、フランス渡航当初は、真面目に勉強し作品も描いているのですが、その後9年という長期にわたってフランスにいながら作品は少なく、しかも山本芳翠に何度も借金を重ねているのです。日本政府の奨学金を受け取っているのに、いったい何をしていたのやら・・・

帰国後は絵画塾を開き、教育活動は続けたものの、主だった作品は無く、更に悪いことに宮内庁奉納の絵が拒否されるという事も起こっているようです。同じようにフランスへ渡った芳翠の活躍と、なんと違うのでしょう・・・才能はあったのに、何か道を間違えたのだろうか・・・。

Goseda_2sei1 子供達の中では、二世芳柳の絵が気に入りました。「羅漢図」(左)、丹精な絵です。

はやり西洋絵画排斥運動という難しい時期、西洋画技法を習った二世芳柳は、日本画に上手くそれを取り入れたと言っていいのではないでしょうか。

一方、山本芳翠(1850 岐阜生 - 19?)ですが、彼は五姓田派の一員だったのですね。全然知りませんでした。京都で南画を習った後、中国絵画を習おうと横浜へ来て芳柳に入門、程なく独立しています。彼の凄いところは、目的の為になんと密航を企てた事。彼の意思の強さが分かるようです。

その後、ワーグマンに出会ったり、パリ万博で仕事をしたり、サントノーレでアトリエを持つという、ここまでの経歴は義松と似ているのですが、やはり人物が違っていました。

彼は黒田清輝と出会い交友を深め、彼に画家になることを奨めたり、また、林忠正とも親しくなり、その後の行動も共にしているので、きっと西洋と日本のこれからの関係、そして日本美術の行く末など議論を交わしたのではないでしょうか。そして林を通して、芳翠はこれからの日本絵画を道を見つけたのではないかと私は想像しました。

Hosui_nue

コランを思い起こさせるような美しい裸体(1880年作)にはびっくり。当時の日本男性もこんなに魅力的に女性を描けるんですね。しかし、これはフランスで描いたもの。日本に戻って描いたのは、有名な「浦島図」(1893-95)。日本美術排斥運動中にヨーロッパへ留学し、帰国してみると西洋画排斥運動中という、気の毒な画家は他にもいますが、彼は見事に克服しているように見えます。

Hosui_urasimazu

最後になりましたが、この五姓田(ごせだ)という姓は、初代芳柳が幼くして両親を亡くしたため養家を転々とし、姓を五つ経験したことから、彼が明治初年頃この名を作り出したのだそうです。変わった名だなと思っていましたが、こういう理由があったのですね。

明治時代の日本画壇の動きは、ほんとうに面白いです。これからもこういうマイナーな画家を取り上げる美術展があったら、行ってみたいです。           

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日本美術 L'art japonais」カテゴリの記事

コメント

こんばんわ
五姓田一門、知りませんでした。
サロン展にも入選、相当の実力ですね。
勉強になりました・・・素晴らしい・・・感動しました。
横浜・馬車道、懐かしい・・そして神奈川県立歴史博物館も
このミュージアムも何度か行きましたよ。
明治の建築家:妻木の作品・・明治の建築物に興味がありますので
意外と・・散策に出掛けます。古い喫茶店、映像コーナーなど
タイムスリップしますね。
映画やテレビなどたまに使われているみたいです。
明治の近代建築は、西洋とどこか違っていて、日本風で大好きです。
日本の洋画は、キオッソーネあたりかな~なんて思っていましたが
日本人も過しですね。
私もボストンの浮世絵展をアップしようと思っていましたが、
近代日本の画家たちに万歳という感じですね。
早速、勉強します。

投稿: kju96 | 2008年10月 5日 (日) 01時08分

kju96さん

コメント、どうもありがとうございます。
私も詳しくは知りませんでした。
西洋画を学校という教育現場に広めた意義は大きいですよね。

この歴史博物館にもいらしたことがあるのですか!なんとkju96さんはいろんなことをご存知で・・・
このあたりは、素敵ですね。随分昔行ったことがあったのですが、すっかり忘れています。またゆっくり歩いてみたい街並みですね。

ヴェネチアにキオッソーネの美術館があるんですもの、kju96さんがそう考えるのも無理は無いです。
キオッソーネというイタリア人も自分の給料のほとんどを日本の美術収集に当てたみたいですね。いつかヴェネチアにまた行ったら、ぜひとも見たいと思います。
イタリア人で日本の美術界に貢献してくれた人に、フォンタネージという画家もいます。彼は西洋画を教える為に美術学校の教師として来日したのですが、なんと7年後には日本画への流れとなり、廃校となってしまうのです。外人教師も大変な運命に流されていますね。

この五姓田義松が習ったイギリス人のワーグマンは、なんと明治維新以前に来日しており、横浜の外国人居住区に住んでいたため、義松は通いやすかったのだと思います。当時(維新前)は、他に絵を教えてくれる外国人はいませんでしたし・・・

ボストン美術館展は、東京では10月7日からです。楽しみにしていますので、その前にkju96さん、ぜひともその記事をお願いします。

投稿: Cojico | 2008年10月 5日 (日) 23時31分

私のブログのコメントありがとうございます。
詳しいコメントでいつも勉強させて貰っています。
ところで、この一門の画家の人たちにま全く疎かったです。
小生は実は鹿児島県の出で、黒田清輝を初め、そうそうたる
人たちがいて、そういう画家たちには多少通じていますが(詳しく
は知りません)。五姓田という画家にも全く無智でした。
一つ賢くなった気がします。
横浜もそれほど遠くないのに(一時間弱で行ける)全く知りません。
(ヨーロッパの中世には足繁く通うのに)
これからはそちらの方も散策しなきゃいけないですね。

投稿: | 2008年10月 6日 (月) 01時56分

yokuさん・・・ですよね。
おぉ!鹿児島でしたか!今は篤姫で盛り上がっているようですね。
江戸末期から明治にかけて、ほんとに多くの偉人を輩出しましたね。
きっと、鹿児島の歴史博物館というのは、重要資料で溢れているでしょう。
五姓田という一門は、私も知りませんでした。
購入したカタログ内の年表を丁寧に読んだおかげで、概要が見えてきたか感じです。と、同時にまた数々の疑問も沸いてきたりして、有意義な美術展訪問となりました。
私も1時間ぐらい行けるはずなのに、横浜はなんだか遠くに感じ、あまり行きません。
やはり、”興味”が一番のモチベーションでしょうね。
中世についても、興味だけであまり勉強していないので、肩身が狭いです。
これからも、お教えください。

投稿: Cojico | 2008年10月 6日 (月) 15時53分

こんにちは、神奈川県立歴史博物館の千葉と申します。
貴ブログにて当館を取り上げていただき感謝申し上げます。
2017年、当館は前身の神奈川県立博物館の開館から50年目を迎えました。
それを記念し、現在当館では当館にまつわる思い出を募集しアーカイブしていく企画を実施しています。
もしよろしければ、こちらのブログの記事もアーカイブとして加えさせていただくことは出来ませんでしょうか。
また、アーカイブでは、当館に思い出をお持ちの方々がいらっしゃる場所を地図上におおまかに示し、どのような場所に「当館の思い出」が広がっているのかを可視化することを試みる予定です。
そのため投稿していただいた方がいらっしゃる場所の郵便番号を合わせてお知らせいただけると非常にありがたく存じます。
突然の不躾なご相談で大変恐縮ではありますが、何とぞご検討下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。
http://ch.kanagawa-museum.jp/gyoji/50anniversary.html
kenpaku50th@kanagawa-museum.jp

投稿: 神奈川県博開館50周年記念プロジェクト 千葉 | 2017年4月 2日 (日) 21時57分

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