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2008年10月の4件の記事

2008年10月31日 (金)

印象的な色 田村能里子の絵

(旅行の話をするべきところなのですが、写真の整理が上手くいかないため、また後ほど書くことにします。)

私はこの画家の名まえも作品も全然知りませんでした。9月下旬、日本橋高島屋の展覧会のパンフレットを見てその色の派手さに惹かれて見にいったのですが、これが、大本山天龍寺塔頭宝厳院本堂再建襖絵だそうです。

http://tamuranoriko.yukigesho.com/info20081.html

すごいでしょう?展示場では、こういう立体的な展示ではなかったのですが、とにかく私は初めてこのオレンジ色に覆われた絵を見てびっくり。禅宗の建物にこの赤色の襖!

寺社に赤、というと、銀閣寺の奥田元宋氏の襖絵(私は数年前、特別公開日に実際に見てきました。)を思い出すのですが、あの絵は、彼のいつもの衝撃的な赤よりは少し落ち着いて見えました。

田村氏の経歴を見ると、日本各地に壁画を描かれていらっしゃる。メルヘンチックなものもあれば、強烈な赤が印象的なのもあり、どれも非常に明るく、見ている側が楽しくなる壁画ばかり。

それらの作品と比べると、今回の襖絵は色数が少なく、静けさというか、音の無い世界が占めていました。人々が向かい合って話している様子なのに、声は全然聞こえない。人々の周りには、風が舞っているように見え、砂漠という過酷な大自然の中のにいる舞台だからなのか、それとも彼女の絵の具の塗り方からくるのか、女性の表情から来るのか、私にはわからない。とにかく、静かな感じ。

砂漠というだけでとてつもなく広大で過酷な世界を想像してしまいますが、そのイメージと沈黙の世界がぴったりと一致。

座っている女性が祈りの姿にも見えますね。思った以上に、いいのかもしれません。でも・・・夜見ると、どのような雰囲気になるのでしょうか?白い人物が浮き出て見えるのでしょうか?オレンジ色が血の色には見えないのでしょうか?想像すると、ちょっと怖い感じ?

後半は彼女の1978年から最近までの絵が見られるのですが、これがよかったのです!佐伯祐三を思わせる味わいのある白い壁!その壁に広がる幻想的な世界。

インドの滞在経験が大きく影響していて、強い太陽を避けて座っている人々の姿が、幻想的な雰囲気の中で表現されていました。

特に印象的だったのは、女性や男性の足の裏!!!普通、画家でもそんなに人の足の裏を描く人はいないのではないでしょうか(カラヴァッジョを除いて)。彼女は、足首より下の部分を何度も書き直していて、非常な注意をもって描いているのが分かりました。

私もインドへ旅行していたときに、人々が普通の事のように地べたに座っている人たちを多く見ました。はだしの人たちも多いのです。ベナレスでは、細い裏通りを、はだしで牛の糞にまみれながら歩いている人を何人も見ました。また、ガンジス川へ続く道の両側に座って、物乞いをする多くの人々・・・

また、ごみ矯めで、(のら)牛や豚などが食べ物をあさっている横で、数人の人が食べ物を探している姿には、ショック!絶句!彼らは当然裸足です・・・ インド旅行で、私も人の足の裏を意識した一人でした。

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彼女は、壁画のように不特定多数の人が見る壁画においては、明るいリズムをデザインし、絵画においては、インドの空気感漂う幻想的な世界をかもし出しています。

女性の日本画家で、このように活躍されている方を知ることができ、ほんとうに満足して会場を後にしました。片岡珠子さんのように、精力的に作品を出し続ける画家になってほしいと思います。

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2008年10月26日 (日)

船は豪華でした。

初めての船旅、終えてきました。船内生活も快適で、バルコニー付きの部屋はとても気持ち良く、また、訪問地もバラエティに富んでいて、義母も大変満足した旅となりました。

Nave_map_2 船旅自体は、右のように7泊8日なのですが、その前後に成田ーローマーヴェネチアの往復が追加され、合計10日間の旅行となりました。
1日目 成田→ローマ→ヴェニス ヴェニス泊
2日目 乗船手続き、ヴェニス各自散歩、出航
3日目 バーリ(Bari観光)
4日目 カタコロン(ギリシャ・オリンピア観光)
5日目 イズミール(トルコ・エフェソス観光)
6日目 イスタンブール(トルコ・イスタンブール観光)
7日目 終日航海
8日目 ドブロブニク(クロアチア・ドブロブニク観光)
9日目 ヴェニス下船後、空港へ。
     ヴェニス→ローマ→成田
10日目 成田到着

Nave_salire_2 これが乗った船。大きいでしょう!下の方に乗船している人が小さく見えます。この写真でも全長の後ろ3分の1しか写っていません。約9万トン、乗客デッキは13層、エレベータも13基。

船内施設は、レセプションやエクスカーションデスク以外に、レストラン5、野外バー2、劇場、カンファレンスルーム、ディスコ、カジノ、ジム・サウナ、プール2、子供用施設、図書室、葉巻室、医務室、アートギャラリー、フォトギャラリーなど。客室1275室。全室バスルーム(シャワー・トイレ)、テレビ、ミニバー、セイフティボックス、ヘアードライヤー、エアコン完備。

Nave_center 船内を歩くと、わーっと歓声をあげるばかり。だって、どこも美しく素敵で、豪華に見えるようにできているんですもの。右は船の中央でして、セプションや船主催のツアーの受付場所があり、3階分の吹き抜けの下には、人工池の上に白いピアノが置かれていて、毎晩ピアノ、ヴァイオリン、ビオラなどの演奏が行われていました。

また人を飽きさせないように、毎晩、劇場やバーなど至る所で様々なエンターテイメントが行われていて、味気ない夜に変化を与えているようでした。

Nave_theatre  Nave_zebra

上の左の写真は、夜の劇場。毎晩、照明の色が変わります。ここでは、パントマイム、手品、ミュージカルなど、言葉が分からなくても楽しめるようになっています。

右の写真は、ゼブラルームに集まった、ツアーへ行く前の人々の様子です。胸に番号の付いた紙をぺったんと張り、”3番の番号の方、4番デッキから出ます。”などという放送が流れると、3番のグループがのそのそと動き出すのです。

Nave_corri とにかく、一度に1500人以上の人が出入りするので、船の中は移動者でいっぱいになりますし、また観光地も船からの人たちでごった返します。これがちょっといやでした・・・。

そうそう、言語は5ヶ国語で、イタリア語、ドイツ語、英語、フランス語、スペイン語の順で放送。イタリアの船ですし、ドイツ人の旅行客が多かったからです。

また、乗務員の人々も世界中から集まっていました。レストランで接客していたたくさんの東洋人はなんとバリ島から働きにきたのだとか。また、私の客室世話係の人は、マダガスカル出身でした。彼はフランス語が母国語。他に、肩幅のしっかりしたスペイン語が母国語の人に尋ねてみましたら、なんとポンジェラス出身とか。

Nave_piscina  Nave_buffe

左は、屋上のプール。朝早くに撮ったので、水着姿の人は写っていませんが、日中は向こうにある2つのプールと共に白人で埋め尽くされていました。この時期ですので暑くもないのに、あの太陽の光を受けたい願望はほんとに強いんですね。日本人には考えられません。

右の写真は、プールと同じ13階にあるビュッフェのデザートコーナー。食事は、朝でも昼でも、コースで取れるレストランもあり、その日の気分で自由に選べます。ただ、夜だけはレストランとその区画が決められていて、変更はできないのです。

船内生活の説明ばかりしましたが、船からの景色もよかったですよ。海だけの時もあり、また、海岸線を楽しむときもあり、普通の陸上だけの旅とは違った景色を楽しめたようです。

Mave_onde

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2008年10月 8日 (水)

初めての船旅へ

Ami_vitre1 初めての”船旅”に出発しますので、しばらくお休みにいたします。(右は、アミアン大聖堂のステンドグラス。画像が無いのも寂しいので・・・)

大きな船のようで、総トン数約9万トン、乗客数2500名、乗組員数1000人ですって。
映画館、劇場、プール、ディスコ、バーなどの他に、カジノもあるようです。

旅行自体は、夜間に移動して、翌朝寄港し、日中はその街を観光。夕方船に戻ってきて、夜間また次の街へ移動というパターン。

昨年、ご主人と一緒にこの種の旅行をした友人は、結構楽しんだらしいのですが、義母のお供の私は同じように楽しめるでしょうか・・・

準備の上で悩んだのは、船内でのフォーマル、インフォーマルなどのドレスコード。友人の結婚式に着たドレスとかその他いくつかを部屋に並べ、どうしようと悩む日々が続きました。

靴もロングドレス用のを引っ張り出してきたのですが、びっくり!ヒールがめちゃめちゃに高いのです。履いてみると、なんとなくとふらつく感じ。当時は、こんな靴も履いていたんですね。当然のことながら、平らな靴を持っていくことにしました。

それにしても今年は、旅行をし過ぎました。家族に迷惑をかけているし、2ヶ国語の学校も休まなければならないし、宿題も溜まるし、美術展も溜まるし・・・。実際、昨年勉強を中断してから気楽な日々に慣れた為、手抜きがひどくて反省しています・・・帰ってきたら、真面目に勉強するよう心がけます・・・。

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2008年10月 4日 (土)

知らなかった明治の西洋画家集団 五姓田一門

Goseda1 先日といっても9月上旬の事ですが(どうしてこんなに早く月日は経つのでしょう・・・)、久しぶりに横浜へ行ってきました。もちろん、横浜美術館で開催されている「源氏物語の1000年」を見に・・・ではなくて、私の本来の目的は、神奈川県立歴史博物館で開催されている「五姓田のすべて- 近代絵画への架け橋」(8月9日~9月28日 神奈川県立博物館)を見ることでした。

当然ながら、「源氏・・・」は見たのですが・・・うーん、なぜか心に響いこない・・・板橋区立美術館のように工夫すれば、いくらでもおもしろく、魅力的にできたはずだと思うのですが・・・。それとも、何も期待しなかった私が悪いのでしょうか?

Goseda_panph2 それより今日は、江戸の終わりから明治にかけて西洋画に貢献した五姓田一門の話をしてみたいと思います。
いつの頃からか五姓田芳柳という名まえを意識するようになりました。でも彼の情報が全然入らないため、明治という難しい時代に、どういう存在だったのか、どういう事をしたのか知るために行ってみることにしました。(左は、パンフレットの裏面です。クリックして大きくすると、五姓田一族の絵がよくわかります。)

久しぶりの馬車道、あたりは淡ーい明治の雰囲気!いいですえ!会場の神奈川県立歴史博物館を見てまたびっくり!趣ある建物です。入り口の階段には赤い絨毯がひかれていて、その先にあるドアは明治時代の木枠でできたもの。そこはかつての横浜正金銀行本店本館だったのです。廊下も両側の部屋の入り口も明治時代の雰囲気を漂わせ、素敵な空間です。

でも会場は、床は大理石で素敵だったものの、全体的に暗く、狭い場所にたくさん詰め込んだようで、おまけにすべてがガラスの向こうにある為、一昔前の展示場の雰囲気なのです。なんか、不思議な感覚・・・

明治初期、五姓田派という初代五姓田芳柳を中心にした家族とその弟子達の絵画集団が、横浜で活動していたのだそうです。この”活躍”というのは、江戸時代のように将軍お抱え絵師、というのではなく、日本の様子を絹に水彩画で描き(横浜絵という)、外国人に絵を売って生活をしていた、という意味なのです。大変革の最中、その混乱の中でもがんばって絵を描いていたグループがあったんですね。みんなが畳のあちらこちらで横になって描いている様子を見ると、生活は楽ではなかったとはいえ、そのひたむきさに感心しました。

Goseda_kazoku それだけではなく、宮内省から天皇家の肖像画の依頼を受けたりしているので、ある意味社会的成功も治めたといえるでしょう。

さらにこの五姓田派に注目する点は、当時油絵の画材は手に入りにくかった為、鉛筆画を基本としてその技法を、弟子達が日本の学校教育の場に広めていったことです。この五姓田派が、日本の絵画教育の基礎を築いたという事を今回始めて認識したしだいです。

家系図と弟子達の名まえを上げておきましょう。
                                   
初代五姓田芳柳|--- 友之助              
  (1827-1892)  |--- 義松(1855-1915) ワーグマンに入門、天皇の肖像画など
 横浜絵     |   技法を弟子達に伝達、1880-1889 フランス留学     
 肖像画      |   
          |   渡辺文三郎(1853-?) 義松に習う、高校の図画教師
          |    |
          |--- 勇子(幽香) 義松に習う
          |
          |   二世芳柳(1864-1943) 新潟県で図画教師、名誉賞
          |    |     明治神宮嘱託
          |--- 登女子

弟子:山本芳翠、平木政次、松原三五郎、土方力三郎、山内愚遷など。

Goseda_2sei2 この親族の一番出世は、なんといっても義松。才能もあったのでしょう、フランスに渡航した当初は、日本では描かれないような群集の絵を描いて、サロンにも入選しています。彼の上手さを象徴する「男裸体」(右)をアップしておきます。1881年の作なのですが、いやはや見事。

ところがなんとこの人、フランス渡航当初は、真面目に勉強し作品も描いているのですが、その後9年という長期にわたってフランスにいながら作品は少なく、しかも山本芳翠に何度も借金を重ねているのです。日本政府の奨学金を受け取っているのに、いったい何をしていたのやら・・・

帰国後は絵画塾を開き、教育活動は続けたものの、主だった作品は無く、更に悪いことに宮内庁奉納の絵が拒否されるという事も起こっているようです。同じようにフランスへ渡った芳翠の活躍と、なんと違うのでしょう・・・才能はあったのに、何か道を間違えたのだろうか・・・。

Goseda_2sei1 子供達の中では、二世芳柳の絵が気に入りました。「羅漢図」(左)、丹精な絵です。

はやり西洋絵画排斥運動という難しい時期、西洋画技法を習った二世芳柳は、日本画に上手くそれを取り入れたと言っていいのではないでしょうか。

一方、山本芳翠(1850 岐阜生 - 19?)ですが、彼は五姓田派の一員だったのですね。全然知りませんでした。京都で南画を習った後、中国絵画を習おうと横浜へ来て芳柳に入門、程なく独立しています。彼の凄いところは、目的の為になんと密航を企てた事。彼の意思の強さが分かるようです。

その後、ワーグマンに出会ったり、パリ万博で仕事をしたり、サントノーレでアトリエを持つという、ここまでの経歴は義松と似ているのですが、やはり人物が違っていました。

彼は黒田清輝と出会い交友を深め、彼に画家になることを奨めたり、また、林忠正とも親しくなり、その後の行動も共にしているので、きっと西洋と日本のこれからの関係、そして日本美術の行く末など議論を交わしたのではないでしょうか。そして林を通して、芳翠はこれからの日本絵画を道を見つけたのではないかと私は想像しました。

Hosui_nue

コランを思い起こさせるような美しい裸体(1880年作)にはびっくり。当時の日本男性もこんなに魅力的に女性を描けるんですね。しかし、これはフランスで描いたもの。日本に戻って描いたのは、有名な「浦島図」(1893-95)。日本美術排斥運動中にヨーロッパへ留学し、帰国してみると西洋画排斥運動中という、気の毒な画家は他にもいますが、彼は見事に克服しているように見えます。

Hosui_urasimazu

最後になりましたが、この五姓田(ごせだ)という姓は、初代芳柳が幼くして両親を亡くしたため養家を転々とし、姓を五つ経験したことから、彼が明治初年頃この名を作り出したのだそうです。変わった名だなと思っていましたが、こういう理由があったのですね。

明治時代の日本画壇の動きは、ほんとうに面白いです。これからもこういうマイナーな画家を取り上げる美術展があったら、行ってみたいです。           

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