破壊されたマンテーニャのフレスコ画 Affreschi della Cappella Ovetari a Padova
フランスのスイヤックの話の途中ですが、今日は気分転換にイタリアの話をさせていただきます。
友人から、”来月(10月)からのNHKラジオイタリア講座は水曜日と木曜日が中級対象で、世界遺産の話よ!金曜日は音楽だし、面白そうよ!”と言われて、急いでテキストを買ってきました。
3ヶ月でイタリアの世界遺産を北から南までの10箇所を紹介する予定で、音楽も70年代から現代まで、幅広く紹介してくれるらしいですね。
そのテキストの中で、「世界遺産の成り立ち」という記事に目が留まりました。2つの世界大戦で、イタリアはどの国にも増して、歴史的、芸術的文化遺産の多くを爆破によって失なうかまたは損傷を負ったこと、そして戦後漸く、各国で生まれた文化財は、「人類共通の文化財」として広く認められ程されるべきという意識が高まり、1972年に世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約が採択された事などが書かれていました。たった35年程前に”世界遺産リスト”という言葉ができたのですね。もっと以前からあるのかと思っていました。
破壊されたイタリアの文化遺産の中で、たった一つだけ例として挙げられていたのが、パドヴァにあるオヴェターリ礼拝堂の、マンテーニャのフレスコ画だったのです。そこには、「そのフレスコ画はイタリア絵画のルネサンス期における分岐点を示すもので、おそらくイタリアの芸術分野における最も深刻な損失でした。」と書かれていました。
この夏、私はまさにそのフレスコ画を見てきたので、思わずその写真やそこにかかっていた写真などをアップすることにした次第です。左は2008年8月現在のオヴェターリ礼拝堂の状態、ちゃおちゃおさんがおっしゃるように、2011年の建国150周年に向けての修復作業が、ここでも行われていました。
オヴェターリ礼拝堂(La Cappella Ovetari)というのは、ジョッドの絵で有名なスクロヴェーニ教会の受付になっている市立エレミターニ博物館の右側にある目立たないエレミターニ教会(Chiesa degli Eremitani)の中にあります。(一番上の写真はそのファサード)
これは教会内部。壁が変わっていて、興味をそそられます。でも、再建されたらしく新しい感じですね。問題のオヴェターリ礼拝堂は、正面に見えるアプシスのさらに右側にあり、この写真では見えません。さらに、修復の為の足場が組まれていて、写真には撮れなかったので、その反対側の壁に写真付きで説明されていた内容の一部と、現地で購入した”Padova”という本(イタリア語版)を読みながら、少し解説をしたいと思います。
元は、左のようなフレスコ画が両側の壁に展開されていたのだそうです。現地版の本に寄りますと、この壁画は、1448年アントーニオ・オヴェターリ(Antonio di Biagio degli Ovetari)の未亡人が、ヴェネチア人の画家アントニオ・ヴィヴァリーニAntonio Vivarini と ジョヴァンニ・ダレマーニャGiovanni d'Alemagnaに、「聖クリストフォルスの話」や「福音史家」「キリスト受難」の話を依頼し、また、パドヴァ人のニコロ・ピッツォロNicolo Pizzolo とアンドレア・マンテーニャ Andrea Mantegnaには、「聖ヤコブの殉教」や「聖母被昇天」「使徒達」の話を依頼したのです。
ところが、ダレマーニャとピッツォロの2人が亡くなり、さらにヴィヴァリーニが撤退してしまった為に、マンテーニャが一人で全部の仕事をすることになったのです。そこに掛かっていた古い写真を見ますと、マントヴァへ行く前の若いマンテーニャが描いたのは、ヴェネチア派の美しい色合いを取り入れ、また、当時パドヴァに居たフィレンツェから来ていたフィリッポ・リッピやドナテッロ、ウッチェロなどからの影響も受けた見事なボリュームの人物表現を取り入れ、遠近法を熟知した繊細かつ豪華な作品だったことが分かります。
上の2つの画像を比べてください。左がマンテーニャの元の作品の一部、すばらしいでしょう?鮮やかな色合い、群集の配置、表情などものすごい力作ですよね。そして、右が破壊後の現状。断片と元の絵を見比べながら、元に戻す作業をしたのだそうですが、なんと悲しい・・・。
この爆撃をどうにか逃れることができたのは、「聖クリストフォロの拷問」(右側壁面、一番下の絵。下の画像)で、その理由は、この本に寄りますと、なんとあらかじめ剥がされていたからなのだそうです(この理由は、日本語のネット上には何処にも書かれていません。初めてかも!)。
右の画像は、観光の為に現地でもらったパドヴァの地図の表題部分。この絵を見て、何も知らない私は、「ウワー、凄い絵、誰が描いたのかしら・・・実際にみてみたいなあ」と思っていたところ、この場所に来て、初めてマンテーニャの絵だと分かったわけです。
ちょうど、上の絵の中央上部に当たります。このように、マンテーニャの絵は、今でもジョッドの絵が存在するこのパドヴァにおいて、この地を代表するフレスコ画なのですね。いえ、言い間違えました、”イタリアのルネサンス初期の代表作品”だったわけです。
上の葉に覆われたぶどう棚の生き生きさ、目に矢を受けて倒れそうな主人、それに驚いている付き添い人、その建物の装飾として描かれている浮き彫りの見事な表現。なんとすばらしい!
そして右の画像は、上の全体図の右下の男性です。この表情を見ると、ああ、マンテーニャの絵だな、と納得できるでしょう?全体図を見直すと、建物の上で見ている人たちと、下の群集とのバランス。そして、右の建物の遠近表現など、見事です。
実は、今回のパドヴァ訪問は2回目でして、その訪問の目的の1つがこの壊されたマンテーニャの絵を見ることだったのですが、その絵がこんなにも価値のあるものだったとわかり、非常にうれしいです。この絵が残っていたら、マンテーニャの名前ももっともっと有名になっていたでしょう。
次は、教会の壁にかかっていた第2次世界大戦中、1944年3月11日の空襲後の写真です。壁が少し残っているだけで残りは粉々ですね。写真をクリックすると大きくなりますので、ご覧ください。
この教会で美しいなと思ったのは、中央祭壇の左側のフレスコ画(右の写真)でした。作者は、グァリエント(Guariento di Arpo 1338-1370)というピオーヴェ・ディ・サッコという地で生まれた人物で、パドヴァで活躍していたようです。市立美術館で、彼のエンジェルを見ることができるようです。
NHKのテキストに戻りますが、イタリアは、第1次世界大戦中に、ヴェネチア、ラヴェンナ、ヴィチェンツァ、ヴェローナが爆撃され、第2次世界大戦争中には、ミラノ、トリノ、ジェノヴァ、パルマ、パドヴァ、リミニ、ボローニャ、ローマ、ナポリ、パレルモなどが爆撃を受けたそうです。
ボローニャは、最も重要な建築物の多くが破壊されたり損傷しまして、それは歴史的建築遺産の44%にもなるのだそうです。ボローニャは、アーチが印象的な素敵な街でした。たしか歴史的にも、民衆が地下組織を作り、ドイツ軍に対抗したことでも有名な街です。ボローニャの話もたくさんありますので、いつか書くことになるでしょう。
パドヴァには、見残した場所が3箇所もあるのです。いえ、植物園も行っていないので4箇所、考えてみれば、ラジョウーネ宮も中に入れなかったので、これも入れて5箇所!
もう一度、行かなければならない街の1つです。
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