やはり写真がなければ・・・
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今日、この3月8日に受けたイタリア語検定3級の結果が届きました。
ふふふ、合格です!
リスニング(28) 筆記(38) 作文(20) 合計(86)
私の得点 25 33 16 74
合格基準点 18 24 12 60
平均点 23.1 27.1 10.2 60.4
自分でも心の隅では合格はすると思ってはいましたが、やはりテストというのはどこかに不安が残っていて、いやなものです。
勉強した本は、「イタリア語検定3級突破」、と友人から教わった「イタリア語 聴き取りトレーニング」。Rさん、どうもありがとう!とても役に立ちましたよ、この本。
でも、こうやって、86パーセントが取れているのをみると、ちゃんと3級レベルの知識は確実についているんだな、と安心できます。
イタリア語を習い始めて1年後、5級と4級を同時に受け、両方とも合格したのが2006年11月。
それから3級の合格は2年半後となりましたが、その間には、手術入院2回、リハビリなどを経験し、1年ほどは全然勉強していませんでした。
再開したときは、クラスのレベルを下げて、同じ箇所をするという状態からでしたので、少々焦りましたが、まあ、今となっては全て良しですね。
今回(2009年3月第28回)の検定結果
級 3級 4級 5級
申込者数 716 619 463
受験者数 631 538 385
合格者数 169 333 283
合格率 26.8 61.9 73.5
前回の検定結果(といっても2006年11月分ですが)と比べて気になったのは、4級と5級の合格率の高さ。2006年秋は、4級は37%、5級は53.3%です。
ただでさえ数少ないイタリア語学習者に、長く勉強し続けてもらいたいという期待を込めて、合格率を上げたのでしょうか・・・?
2級受験は、考えていません。かなり難しいといわれていますし、合計点は80%取れなければいけないのだそうです。2006年の結果を見てみると、526名の受験者に対し、1次合格者はたったの63名!今の私には、考えられません。
今通っているクラスでは、接続法過去の用法をどんどん勉強しているところです。周りのかたがたは、ほんとうに真面目に励んでいます。一方、1年半の中断で失われたフランス語力を戻そうと、フランス語を再開した私は、くじけそうです。
イタリア語が簡単な間は、どうにか両立ができたのですが、イタリア語まで難しくなっていては、とても太刀打ちできません。どうしよう・・・。焦らずに、のんびりと続けられたらいいのですが・・・
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「すぐ読める本だから、読んでみて」と、ポンと友人から渡された右の、Jean-Louis Fournier著『Ou on va, Papa? 』((僕達)、どこ行くの?パパ)という本。昨年(2008年)、”PRIX FEMINA”という賞を獲得したという。
PRIX FEMINAという賞は知らなかったので、調べてみると、雑誌FEMINAが雑誌LA VIE HEUREUX協力の下、1904年、ゴンクール賞に対抗して創立された賞なのだそうだ。審査員は賞の名前の通り、全員女性だとか。
この本、昨年8月20日に発刊された直後から、出版のStock社にはメールや手紙が押し寄せ、瞬く間にフランス中を感動の渦に巻き込んだのだそうだ。
女性達がこの本を選んだ理由は良く分かる。これは、生まれた子供が二人とも重度の障害者だった父親の、長年の心情が書かれている本なのだ。
連続する日々の生活は、想像を絶する状況だったのだろう。しかし、作家でありまたテレビのディレクターでもある彼は、母親が子供を見る姿勢とは少し異なり、一歩引いた見方で、厳しい現実や絶望、そして子供へのかなわぬ夢までもさらりと書き流している。
この本を実際に障害者の子供を持つ親が読んだら、どう思うだろう?反感を感じる箇所も沢山あるように思われる。難しい・・・
しかし、これがもう白髪になってしまった彼の、長年悩み苦しんだ後の素直な赤裸々な声なのだと思った。
・・・・
もし、彼らが文字を読めるようになったら、先ずタンタン(有名なかわいい漫画)を買おう!そして”Signe de Piste”シリーズ(少年冒険小説らしい)、そしてアレキサンドル・デュマ、ジュール・ベルヌ、それからプルースト・・・
しかし、彼らは決して読むことはできないだろう。たとえページの上の文字がはっきりしてきても、彼らの頭の中では、それらはぼやっとしているだけなのだろう・・・
・・・ 彼は、それらを絵と思っているのかもしれない・・・それとも、蟻の子供と思っているのかもしれない。彼はそれらをつぶそうとして手を伸ばしても、それが逃げないので不思議に思っているようだ・・・
・・・・・
私は、『ハンディキャップ handicape(フランス語的スペル)』という言葉が好きではない。だって、それは英語の言葉だし、『帽子の上の手』という意味じゃないか。
『異常 anormal』という言葉も好きではない。それは特に子供に使われる。
『normal 普通、標準』というのは、どういうことなのだろう?あるべきなように、存在しなければならない、つまり、平均、普通、凡庸であるということか。私は、『普通』が好きではない。それより上か、下でも良い。とにかく、他のみんなとは違うのが良い。
私は、『他の人のようではない』という表現を使いたい。だって、私はいつも他人が嫌いだから。・・・
・・・ 私が子供達の事について話すとき、彼らの事を『他の人のようではない』子だと話す。なんとなくはっきりしない表現だが。
アインシュタインもモーツアルトもミケランジェロも、他の人たちとは異なっていた。
・・・・・
なんと彼の奥さんは、3人目を妊娠し、迷った後生むことにした。そしてかわいい女の子の誕生!ブロンド髪のかわいい正常な赤ちゃんだった。そしてその後、なんと母親は子供達の元を去ってしまうのです!
しかし、彼は奥さんに対して泣き言一つ言わず、たださらっと”去った”とだけしか書いていない。他の辛いことも淡々と書き流している。
・・・・・
Mathieu(長男)は、背中がどんどん曲がっていった。金属のコルセットを巻いていたのだが、何の足しにもならなかった。そのシルエットは、土を掘り続けた人生を送った田舎の年老いた農夫のように見えた。彼を散歩に連れて行っても、彼は足元しか見えない。空を見るなんてとてもできないのだ。・・・
それでも曲がり続け、とうとう肺を圧迫し、呼吸も困難になってしまった。背骨をまっすぐにする手術を受けなければならなかった。
手術は行われ、彼はまた完全にまっすぐになった。(il est totalement redresse.)
3日後、彼はまっすぐのまま亡くなる。(il meurt droit.)
結局、彼に、空が見えるようになされたはず手術は、成功したのだ。
・・・・・
なんとも辛いでしょう・・・この表現。女性だったら使えないですよね。
文章が短く、簡単な単語ばかりなので非常に読みやすい上に、紙上に余白が多いので、ゆったりした気持ちで読み進めることができます。わかりにくい所は読み飛ばせばいいので、初中級も十分に味わえる本ではないでしょうか。ただし、現実ではない想像が多いので、条件法を習っているとそのニュアンスの違いが非常によくわかります。
ちなみに、この『Ou on va, Papa?』という題は、次男のThomasが声として発することのできる唯一の文章です。
(しばらく書きません、と言っておきながら、すぐ書いてしまうところがいやですね、全く・・・。でも、ちょっと良い本だと思ったもので、書いてみました。また、気分転換にもなりますし・・・)
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しばらく記事の更新がなされていなくて、すみません。
事情により、時間的余裕がなくなり、しばらく更新できなくなりそうなのです。
気が向いた時は、記事を書くかもしれませんが、基本的にしばらくお休みさせていただきます。(4ヶ月ぐらい?いえ、もっとかな?)
教会の記事を楽しみにされていた皆様、すみません。また、落ち着きましたら、ロマネスクだけでなく、フランスのゴシックの教会もアップしていきたいと思っております。
書きたいのは山々ですし、多くの写真達もアップされたい!と叫んでいるかもしれません。その上、書いて欲しいと頼まれていた地域もあったのに・・・・ごめんなさい!かなり先になりそうです!
上の写真は、パリ北部、サンドニの教会内部です。シュジェールの思想が具体化された有名な教会!現在では、石の肌とステンドグラスの美しい色がかもし出す穏やかな空間を味わえますが、当時はもっともっと色鮮やかで派手だったようですよ。今日では、想像するのも難しいですが・・・。
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先週の月曜日(3月2日の夜)、NHK・BShiでギリシャでの世界遺産の一つ「聖地アトス」という半島の特集を放送していました。
全然知らない地名でしたし、修道士達の、中世を思い起こさせるような厳しい生活を守り続けている一途な姿に惹きつけられ、2時間テレビの前に座り続けてしまいました。ほんと、驚きました!未だに、あのような世界があったとは・・・・
ギリシャ北東部の細長い半島の先端にあるアトス山は2033メートル、平地も無く山道ばかりの厳しい環境のその半島では、古くは10世紀から、かつては40、現在では20の修道院が存続しており、2000名程の修道士が暮らしているのだそうです。彼らは、1000年以上前からギリシャ正教の戒律を守り続け、儀式を行い、厳しい自給自足の生活を送っているのです。そこは、全く世俗から隔離された世界で、ギリシャ政府からも唯一自治を認められ、異なる時間を過ごしているのだそうです。
黒い修道服は、世俗を捨てた証、そして、腰をしっかり締め付けている黒いベルトは、貞節の証。
女人禁制のこの聖地は、動物でもメスは禁止されており、鼠を捕ってくれる猫だけは特別に許可されているのだそうです。(ネット情報によりますと、この地に女性が入ると、最大で禁固2年の罪なのだそうです。)
大きな修道院は、船で訪れる巡礼者(男性のみ)を受け入れ、食事、ミサなどを共に行って、現金収入を得ることができます。
ところがここには、修道院から独立し、個別に小さな家で生活をしている修道士もいて、自分達だけで自給自足の生活を送る人たちもいるのです。現金収入は1個50円くらいの小さな十字架を作り売るぐらいなので、新しい洋服は購入できず、継ぎ接ぎだらけ。しかも、あまりの孤独に耐えかねる時は、なんと井戸に向かって聖歌を歌うのだそうですよ。
洞窟で暮らしていた修道僧もいたのだそうです。まるで聖書の世界ですね。一人荒野で修行した聖ヨハネか、またまた、一人砂漠で隠者として著作と瞑想にふけった聖ヒエロニムスか・・・
確かにフランスでも、修道院生活は厳しいと聞きましたが、水も電気も通っているし、売店の女性と話している場面(セナンク修道院で見ました)もあり、世俗とも十分に繋がっています。しかし、ここアトスは全くの隔離された孤独な修道院生活。
その様子は、驚くほどの禁欲的でした。現世は仮の世で、死後に天国で暮らすことのみを望み、天国へ行くには、弱い自己に打ち勝ち、欲を捨て、祈りを続けなければならないのです。
朝4時半起床、すぐに3時間の重要な儀式、聖体拝礼(でしたっけ?)を執り行う。8時半、朝食、その後は6時間の労働。黒い修道服のままで農作業や建物の修理も行う。
その後、また祈り、夕食は一人が聖書を読んでいる間に、沈黙の中で食事を終えなければならない。食後、個人の部屋に戻るけれど、私用品は一切無く、静寂の中、イコンを置いている自分の机にすわり、神との対話を行う・・・。
少し歴史的な話をしますと、8世紀の偶像廃棄運動で、多くの板に描かれたイコンは壊されました。テレビでも、見事に縦に割れたイコンが映っていましたが、面白いことに《イコンは、神が描いたもので、偶像ではない》という結論に達し、それ以降は、立体的な像は作られないものの、イコンは描かれていったのだそうです。
13世紀始めには、十字軍によって、コンスタンチノープル陥落。そして、15世紀の半ば、オスマントルコにより東ローマ帝国が滅亡。後ろ盾を失った修道院は、その宗教精神を守るために重税に甘んずる道を選びます。確か、ブルガリアの《リラの僧院》も同じような苦しみを味わっていましたね。その後、ロシアのロマノフ王朝からの援助で息を吹き返したのも束の間、ロシア革命により、まだ援助を失ったのです。
まったく、厳しい歴史の積み重ねです。しかし、宗教は強い!最近は、EUの援助を受け、修復工事なども可能になっているのですが、未だにカトリックへの不信は強いのだそうです。これだけの長い歴史を考えると、そういう姿勢もうなづけますね。
ギリシャは新婚旅行で訪れた国。紀元前の遺跡のほかロードス島も行き、それで満足していたのですが、こういうギリシャ正教の世界には気が付きませんでした。この番組を見て、北の方にあるギリシャ正教の修道院にも興味が沸いてしまいました。
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ヴェローナのサン・フェルモ・マッジョーレ教会 Cheisa di San Fermo Maggiorre のファサードです。
上層の教会を改築したのは、1313年、ベネディクト会から教会を購入したフランチェスコ会でした。このファサードの完成は1350年頃。
上半分はレンガ色と白い石との縞模様はこのあたりの特徴でしょうか。ヴェローナにある他の教会よりシンプルですが、美しい調和を保っていると思います。
入り口左に見える石棺は、ジョヴァンニ・ダ・トレンティーノ作アヴェンティーノ・フラカストーロ(1368年没)のお墓。この人物、当時の権力者だったスカーラ家のCangrande della Scalaの友人で、お医者さまだったようです。重宝されていたんですね。
正面入り口には、新しく1997年にLuciano MInguzzi によって作成されたというブロンズ製のドアがありました。これは、サン・ゼーノ教会に見習ったのでしょうか?
聖フェルモと聖ルスティコの殉教とヴェローナ民衆の彼らへの信仰を表した24枚のパネルによってできています。左に見られるように、かなり斬新です。
中に入ってみましょう。また、気に入った天井を強調した写真がありましたので、またアップします。ほんとに美しいですねえ、この船底型木製の天井!
そして、目に飛び込んでくるのは、右手にある赤い大理石の説教台(1360年製作、下の写真の右側)。細長く豪華な装飾のゴシック天蓋、そしてその周りはマルティーノ・ダ・ヴェローナによる美しいフレスコ画に覆われています。
そのには、ブレンツォーニ礼拝堂(15世紀)。入り口の周りには、《聖ボナヴェントゥーラの木》と呼ばれるフレスコ画の断片が見えます。全部残っていたら、もっと華やかだったでしょうね。
そして、入り口上部には、(上の方で見えにくいですが、両側に分かれている)ジョット派らしいの画家による「受胎告知」がみえます。
ところでこの教会の中で、美術界で重要な作品といわれているのが、入り口を入ってすぐ左側にみえるピサネッロの傑作「受胎告知」なのですが・・・
なんと残念なことに、修復の為にカバーが掛かっていたのです!ショック!
上の写真は、ファサードの裏側です(入り口を入って振り返って見た所。暗くてすみません)。この写真では右側に見える、白いカバーの中で光が見えている部分に、本来ならば、右のような(絵葉書)ニコロ・ブレンツォーニ(1422没)の碑 Monumento funebre di Nicolo Brenzoni があるのです。
石棺を囲んでいるのは、フィレンツェの彫刻家ナンイ・ディ・バルトロ Nanni di Bartoloによるキリストの復活シーン(1424-26作)。
その天幕の右上にはマリア、左上は大天使ガブリエルのフレスコ画がみえますが、これがピサネッロの「受胎告知」(1426)なのだそうです。この絵葉書では、微妙な色彩がよくわかりませんが・・・
ピサネッロ Pisanello については、ウィキペディアに詳しく書かれていますので、参照なさってください。
ピサネッロの作品は多くないらしいのですが、このヴェローナでは、あと2箇所で見ることができます。
ひとつは、美術館になっているカステルヴェッキオ(とても広いですよ。)に保管されている《ウズラの聖母》(左)。マリア様の首の傾げ方と、髪のカーブ、洋服のカーブが一致していて、見事に優雅なバランスを生み出しています。冠とか衣装の模様もほんと美しく描かれています。
もうひとつは、ヴェローナで最大のサンタ・アナスタジア教会内にあるフレスコ画です。少し横道に逸れますが、サンタ・アナスタジア教会(この教会も修復中でした。)の内陣の写真をアップします。
どこにピサネッロのフレスコ画があるか見つかりますか?
ピサネッロの《女王を解放する聖ジョルシオ》は、右側に見える礼拝堂入り口の上部に見えます。四角く囲まれた箇所で、他のフレスコ画より一段と色が薄い部分です。
写真を拡大してみました。色が薄いのは、重要な作品ゆえに、加筆できないためなのでしょうか?周りの修復されたフレスコ画の色が鮮やかなのとは、かなり対照的です。
でも、その描写力のすばらしさはよくわかります。 馬を、前から描くのではなく、背後から描くなんて、ちょっと面白いかも。女王の横顔は非常に気品があり、衣服も優雅に描かれています。
さて、元のサン・フェルモ教会に戻りましょう。
左側アントニオ礼拝堂の上部には《聖母の戴冠》、右のアゴニザン礼拝堂の上部には《マギの礼拝》、それぞれの上には、跪いている2人の姿。一番上には神がいらっしゃいます。
中央のマッジョーレ礼拝堂の天井には、4人の福音史家たちのシンボル、天使、牡牛、ライオン、鷲が鮮やかな色で描かれています。祭壇の下には、聖フェルモとルスティコの聖遺物が納められているそうです。
最後に、美しい後陣の外観と教会平面図をアップして、終わりにしたいと思います。
サン・フェルモ教会の関連記事:
天井が美しいサン・フェルモ・マッジョーレ教会①
美しいフレスコ画のクリプタを持つ サン・フェルモ・マッジョーレ教会②
その他の教会については、訪問した教会一覧
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これは、サン・フェルモ教会北側側面です。上下2つの入り口が見えることから、2つの階があるのがわかります。以前は、この道路から直接下層階のクリプトへ行けたのですね。
現在は、一旦教会へ入り、祭壇向かって右側(つまり、この画像の面と反対側)から下へ降り、一旦外気を味わい、また別の入り口からクリプトへ入るようになっています。以前lここへ来た時は、クリプタがあるのを知らずでてきてしまい、残念に思っていました。今回、見ることができて、ほんとうによかったです。
一旦、外に出ると中庭が見えるのですが、ここには作業道具が置かれていたり、数台の駐車があったりと、一瞬興ざめ。しかし、降りてすぐ左に廻ったところに、素敵なフレスコ画がありました。ちょっと死角になっているので、見逃す人も多いかもしれません。
気品のある聖母子です。購入した小冊子によりますと、14世紀の地元のジョット派(Giottesco)の作品だそうです。
そして、その下ある石棺は、法学者アントニオ・ペラカーニのお墓だそうで、その浮き彫りは、生前の彼の姿、つまり、生徒達に講義を行っている場面を表しているのだそうです。ノートを前にして頬に手を当てていたり、指をさしていたりしている生徒達の様子が微笑ましくて、思わず写真を撮ってしまいました。
さて、いよいよクリプトに降ります。細い階段の壁にもフレスコ画が描かれているらしく、数人の女性が何かを吹き付けたりして、修復作業を行っていました。
うわっ、素敵!!!いつもこんなに明るいほか、それとも、当時は内部も修復中だったので、作業の為に特に明るくしていたのかわかりませんが、とにかくフレスコ画の赤の色が鮮やかに見え、素敵な空間を作り出していました。
ここで、少しこの教会の歴史を勉強をしておきましょう。手渡されたパンフレットとクリプトの掲げられていたプレートの説明に寄りますと、304年アディジェ川の岸で殉教した聖フェルモと聖ルスティーコに捧げて、5世紀ごろヴェローナの初期キリスト教団が小さな礼拝所を建てたのが始まりだそうです。
右はクリプタ平面図で、黒い壁が現在の形、薄い黄色の四角い部分が、5世紀の建物跡です。
殉教した聖人の聖遺物は、先ずアフリカの初期キリスト教団へ預けられ、その後、カポディストリア(Capodistria 調べてみましたら、スロヴェニアの街の名のようです。ここにはイタリア人が多く住んでいるのだそうです。)に移されたのだそうです。
755年、当時のヴェローナの司教サン・アンノーネ(S. Annone)は、大金を払ってその聖遺物を購入し(修道士カドフェル・シリーズの「聖女の遺骨求む」を思い出しますね。)、初期の建物に半円形の遺骨納室を作り、その中央に石棺を聖遺物と共に収めたのです。(上の平面図で、中央にある濃い黄色の半円形の部分にあたります。)
1065年から1143年にかけて、ベネディクト会が、当初2つの教会であったものを1つに統一する形で、下層階は聖遺物を保管するために、そして上階はキリスト教の宗教的儀式を行うために、より大規模なロマネスク様式の建物に再建しました。
1261年、フランシスコ会に代わり、1350年までかけて上層の教会を現在の形であるゴシック様式で広い身廊に変更し、見事な後陣を付け加えたのです。さらに、年月と共に教会内部には礼拝堂や祭壇、記念碑的作品などが加わっていきました。
1759年、アディジェ川の氾濫により、聖遺物と石棺は、上層の教会の主祭壇に移されたのですが、その際、それまで手付かずだった石棺を飾っていた周囲の石材が、なんと売られてしまったのだそうです。
2004年、聖フェルモと聖ルスティーコの殉教1700年祭に際し、地下の考古学調査を行ったところ、5世紀の遺骨納室の残がいが発見されたのだそうです。クリプトの壁には、発見された状態の写真が展示されていました。
ここに描かれているフレスコ画は、12世紀から14世紀の作品だそうで、確かに筆のタッチが異なる絵があるのはわかります。残念ながら、柱の下の方は、度々の川の氾濫により、絵がなくなっている部分も多いのだそうです。
有名な作品は、キリストの洗礼の場面だそうですが、私は見ていません。3番目の左の柱らしいのですが・・・。あの暗そうな場所だったかも・・・とにかく残念!
これは下層階の祭壇です。中央の木製の十字架は、14世紀のもの。
1807年8月30日、5世紀以上に渡ってこの建物を守ってきたフランシスコ会は、この修道院を放棄します。この時点で、ここは単なる小教区の教会となりました。
さてそろそろ、上の教会を見に行きましょうか!また階段を登っていきます。下は、出入口のあたり。こういう、フレスコ画で溢れた空間って、惹かれます。
サン・フェルモ・マッジョーレ関連記事:美しい天井
上層階内部とピサネッロ
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北イタリアの教会は、メインの装飾がフレスコ画ということもあり、色彩に溢れ、荘厳というより”華やか”という印象を受けます。どの教会も素敵なのですが、今回はその中でも少し変わっていて、少し地味に感じたけれど心に残ってしまうような、要するに惹きつけられてしまった教会を紹介したいと思います。
それは、ヴェローナの街を囲んでいるアディジェ川沿いに建つ、後陣の美しいサン・フェルモ・マッジョーレ教会 Chiesa di San Fermo Maggiore。
(話題が逸れますが、前回このヴェローナへ来たとき、何も知らずに、住民以外は駐車禁止区域である旧市内の駐車場に車を止めて罰金を払う目にあってしまったため、今回は駐車場に対して非常にナーヴァスになっていました。ですのでこの写真で分かるように(川の外側から撮っている)、川の外に車を止め、ちゃん駐車料金も払って歩き始めた次第です。車でいらっしゃる方、お気をつけください。)
ファサードやその他外観の画像のアップは後にすることにしまして、気に入ってしまった教会内部をまずお見せしたいと思います。
天井のとても暗い色と、内陣や周囲の壁のフレスコ画のカラフルな色とのバランスが、一見不釣合いに見えます。でもでも・・・私にはとても素敵に見えました。
特に、正面の内陣の絵と天井の境目、半円形が次々と繋がって山形を造っているこの変わった形が気に入ってしまったのです。
さらに、この木組みの天井も!!素敵でしょう?幾何学的に綺麗に並んでいるのに、美しい曲線を作り出していて、ほんとに見事!
ヴェローナでも人気のサン・ゼーノ教会の天井もこれと似ていますが、そちらはもっと洗練されていて、こちらの方がより人の手の温かみが感じられます。実際、こちらの方が古いのだそうです。
ところで、この天井にはある仕掛けがあるのです!写真はクリックすると大きくなりますので、よくご覧ください。
私はこの天井が気に入ってしまい、ぼーっと(口を開けて?)上を見続けていて気が付きました。な、なんと!たくさんある小さいくぼみ全部に、人の顔が描かれているのです!
もう数え切れません。興奮して、主人に話そうと歩き始めたとき、壁にその写真(下)が掲げられているのを見つけました。天井の全ての像が、このようにズラーっと並べられていたのです。
そこに書かれていた表題は、《木製天井の416人の聖人像 --- この街で、間違いなく一番豊富な1300年代の美術館》。
このように、あまり人の気づかない装飾なのに、なんと手の込んだ作業でしょうか。大変だったでしょうね、これらをこつこつと組み合わせていくのは・・・
さらにこの教会の魅力は、2層式教会になっていること。広い下層階のクリプタには、明るい色のフレスコ画がとてもよく残っているのですが、これも気に入った要素の一つです。次回から少しずつ書いていくことにします。
サン・フェルモ・マッジョーレ関連記事:クリプトについて
上層階内部とピサネッロ
ヴェローナ関連記事:ヴェローナのDuomo
ヴェローナで罰金35ユーロ
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正面の八角形の建物は、前述のサン・セポルクロ教会。そして、この中庭の名前は「ピラトの中庭」!(右下の写真は、サン・セポルクロ教会外壁のモザイク、ロンバルド様式なのだそうです。)
ほんとに不思議。どうして修道院の中に、イエスを十字架に送ったユダヤのローマ総督の”ピラト”という名まえをつけたのでしょう?キリスト教信者にとっては辛いはず。
と疑問に思っていたら、やはり、イエスが宣告された法廷の場であるエルサレムを忘れないために、こういう名前をつけたのだそうです。
さらに、この回廊に貼られていた解説版を読みますと、中央に置かれている洗礼盤のような形をした大理石のオブジェは、「ピラトの洗面器 Catino di Pilato」という名前なのだそうで、これまた、”ピラトがこの中の水で手を洗った”(つまり、自分の責任ではない事の暗示)ことを思い出させるために、こういう名前をつけたのだとか。
ところが現実には、この石の外側にラテン語で書かれている碑文によりますと、730年から740年ごろ作成されたこの物体の使用目的は、聖なる木曜日に寄進される品物を入れるためのものだったと分かったのだそうで。いやいや・・・
(左の写真は、サン・セポルクロ教会を出てすぐ左にあった、小さな礼拝堂の一つです。この一角だけは、天井も壁の色鮮やかなフレスコ画で覆われていて、思わず撮ってしまったものです。)
さらに、この中庭に面している一つの窓際には、「Gallo di S.Pietro(ペテロの雄鶏)14C」という名の石の鶏の彫刻が置かれている(私は見ていない)のだそうです。これも、イエスから「雄鶏が3度鳴く前に私を知らないというだろう」と予言されたとおり否定してしまったペテロを思い出すようにされているのですね。
もうこの庭は、遠いエルサレムを身近に感じられるように、至る所に仕掛けがなされているようです。
さて次は、ピラトの中庭を挟んで、サン・セポルクロと反対側にある、小さなトリニタ教会 Chiesa di Trinita 13c です。
ここは昔から、4-5世紀では殉教教会、8世紀は、ロンバルディア族の洗礼堂、9世紀はフランカ教会 Chiesa franca、13世紀は、サンタ・クローチェ教会 Chiesa della Santa Croceなど、いろいろな名まえで呼ばれてきたようで、1910年から1923年にかけての大修復時に現在の姿になったそうです。
といっても、右側に小さな礼拝堂のような半円形のくぼみが5つあるだけで、祭壇も見当たりませんでした。でも、柱頭は11世紀から13世紀のものだそうで、少しですがこれは見る価値があります。
さて、いよいよ回廊です。といっても、モワサックのようではありませんが・・・
上下2段の回廊で、下は支える柱の幅が広くてどっしりとした感じ、上の階は柱が細く間隔も狭いので繊細な感じのする、バランスのよい回廊だと思いました。でも何か足りない・・・と考えていましたら、それは緑でした。はやり中央には草木があるといいな・・・
一階の回廊は上の写真のようでして、古い木の天井がいいですね。ここはどうも、2階の回廊が素敵らしくて、ところどころにかわいい柱頭を見られるそうです。私は行っていないので上がれるかどうか分からないのですが、もし、これから行く予定をされている方は、ぜひチャレンジしてみてください。
最後の博物館です。その隣に充実した売店がありました。
古くから発展してきたこの教会の経緯を、またアップしておきます。
関連記事:
エルサレムを模したサント・ステファノ教会群① (聖十字架教会、サン・セポルクロ教会、サンヴィターレとアグリコラ教会について)
その他の教会については、こちらから選んでください。
この教会のホームページは、こちら。
最後に、教会前広場の写真をアップしておきます。統一感のある街って素敵ですね。
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このような変化のある教会建築は初めてでした。と言っても、上の写真のように、外見上は何の変哲も無くて、大きくもない建物を見ると、信じられないでしょう?
ここは、ボローニャの中心広場から南東に10分ほど歩いたサント・ステファノ教会。小さいながらもその内部は、クリプトや回廊だけでなく、今までの教会訪問の経験からは考えられないほど変化に富んだ教会だったのです。私は気に入ってしまいました。
右の平面図を見てください。変わっているでしょう?建物は一つだけではなくて、上の写真で説明しますと、右側の教会と、その左にある八角形の建物、さらに左に見える小さめの建物も全部中の通路で繋がっていて、それら全部を併せてサント・ステファノ教会を構成しているのです。
1-3:聖十字架教会
4:セポルクロ聖堂
5:サン・ヴィターレとアグリコラ教会
6:ピラトの中庭
8:トリニタ教会
9:ベネディクト修道会の回廊
10:マギのグループ
11:博物館
とても古くからここは神聖な場所だったらしく、西暦80年には(キリスト教からみると)異教の神イシスを奉っていた神殿があったのです。
その後、改築、増築を重ね現在の姿になっていきました。一つ一つ見て行きましょう。
先ずはメインの入り口である、1番から3番までの聖十字架教会(Chiesa del Crocifisso)から。8世紀に建てられた旧ロンバルト族の大聖堂で、12世紀に改築され、最終的に現在の姿になったのは19世紀のようです。単身廊、天井は木の梁でした。
内陣は、正面の階段を上がった所ですが、かなり新しそうで手前の身廊の古さと対照的です。丁度頭上に、 磔刑のキリストと共に、上部には裁きのキリスト、左右に聖ヨハネと聖母マリア、足元にはマグダラのマリアと聖フランチェスコが描かれた、Simone de Crocifissiによるキリストの十字架(1380 右)が掲げられていました。
クリプトの入り口は、階段の両側。購入した小冊子(フランス語)によりますと、この内陣への階段は19世紀になってから造られたもので、元のクリプトへの入り口は、上の写真で、正面両サイドに見える、閉じられた白いドアの部分だったそうです。
左の写真は、クリプトへ入るあたりを横から撮りました。上への階段を登ると内陣へ、少し下るとクリプトに入れます。
1019年に建設されたクリプトには、殉教者聖ヴィターレとアグリコーラの遺体が納められているそうで、さらに柱頭も面白いのが見られるとのことです。
しかし、私達が訪れたときは、奥で礼拝が行われていまして、何人もの修道士達が歌っていましたし、信者の方もいらして、とても写真を撮るという雰囲気ではありませんでした。
さて、クリプトに入る手前左手に、隣の教会(4番)セポルクロ聖堂への連絡する小さなドアがありました。
ドアを通り抜けると、あまりの違いにびっくり!暗い!古い!
大理石とレンガの2種類の柱が円形に置かれていて、これだけを見ると、一瞬洗礼堂かと間違えそう。
でもここが前述した、この複合建築の中で一番古い部分でして、元イシス神殿のあった場所です。5,6世紀にキリスト教としての洗礼堂になり、11,12世紀にセポルクロ聖堂( Sepolcro di Cristo はキリストのお墓、埋葬地の意)になりました。
伝説によると、このボローニャの司教(431-450)だった聖ペトローニオ(後、ボローニャの守護聖人となる)がこの聖堂の立案者で、エルサレムの聖セポルクロを模して建築しのだそうです。
ですので、円の中にあるこの祭壇の下には、聖ペトローニオの聖遺物が納められているそうです。
建築物のここまでの変移は以下の通りです。
5世紀前後に、既にこんな立派な建物が建っていたのですね。そしてそれが現在にも残っているなんて、さすがイタリアです。
さて、更に左側にある5番のサン・ヴィターレとアグリコラ教会( Chiesa SS.Vitale e Agricola )に行きましょう。また半間ほどの狭い入り口を抜けると、このような古い教会内部が目に入ります。
こちらも古いです!5世紀では、祈祷用の小礼拝堂だった建物が、6世紀には、司教座大聖堂となり、さらに8世紀から9世紀にかけて、改修および拡張され、さらに11-12世紀に現在の形になったのだそうです。
ここも、大理石の柱とレンガの柱が混ざっています。ここは他に誰もいなくて暗くて、少し怖くて(古かったから?それとも出入り口が一つだったから?)、早々に出てしまいました。
ピラトの中庭に出るには、またセポルクロ聖堂に戻り、左側にある出口から出なければなりません。
(ピラトの中庭以降は、次回とさせていただきます。)
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